「ネットは新聞を殺すのかblog」の湯川さんからトラックバック
「団藤さん、ブログは今までの媒体と違うのでは」があり、良い機会なので先日の
「ブログから生まれるジャーナリズムは」を補足しておきます。「ブロガーの皆さんの多くは『これはニュースになる』との感触をまだ知らない」という部分について、湯川さんは現在のマスメディアのニュース感覚だっておかしいなどの趣旨で分厚い議論をされているのですが、私はそんな難しいことを言っているのではありません。文章論としてニュースを書く感覚が足りないのです。
ストレートな新データを書くのではなく、マスコミが伝えた事実などについて評論している場面では、多くのブログは平面的な主張をしているだけに見えます。書き始めから書き終わりまで、ほとんど議論が発展していないことも多々です。私がブログ時評シリーズで引用しているブログは、書くことによって筆者も何かを見つけるか、新しいステップに入るかしているケースが大半です。見つけることがニュース性を与えているとも言えます。
最近の
「青色LED和解で理系冷遇は変わるか [ブログ時評07]」を例に取れば、「BENLI」の「ギャンブルしなかった中村さん」は米国流の高収入システムを書き、本当はそれに乗っていないのに「理系人は米国に来なさい」と放言する中村教授の言行不一致をきれいに描き出しています。一方、「junhara's blog」の「発明貢献度なぜ5%?」は5%と書籍の印税10%の関係に気づいたところは良いのですが、リスクを取らないから5%になる点などを論じ損ねています。発見の歯車が半分しか回らなかった感じでしょうか。私が補っている部分まで自分で気づいていれば、新しい地平が見えて面白い論に発展したでしょう。
新データを書かなくてもニュースになる文章法を挙げましょう。音楽評論家の吉田秀和さんが「私の文章修業」という本で、大相撲の勝負が決まる瞬間を描ききることで文章を磨いたエピソードを書かれていました。力士の一連の動きの中で、勝敗を決めたのはどの瞬間だった見極めるのです。時事的なニュースであっても、決定的なポイントは何か考える手法として応用可能かと思います。
私が引用してまとめ上げているブログ時評シリーズは、紙のメディアでも通用するニュース性があると思っていますが、その基本は書くことで何かを発見する営為にあるはずです。ネットを回って何かが書けると感じた時には、必ず眼前が開けて見えていなかったことが見えたと思えます。私のジャーナリズム観「隠されがちな事実を伝え、見えなかった意味を言う」の後半部の感覚です。