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by ydando
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「切込隊長」氏の「ジャーナリズム」は「マスメディア」のことだ
 「誰だってジャーナリスト~プロだけのものではない」に対する「切込隊長」氏のトラックバックは「どうしてネット上のジャーナリズムを軽々しく語ろうとするのか」と題されているが、これは正確には「どうしてネット上のマスメディアを軽々しく語ろうとするのか」である。はっきり言って、私には「切込隊長」氏がジャーナリストたろうとしているとは思えない。氏の言っている「報道」とか「ジャーナリズム」のうち「マスメディア」と置き換えた方が適切な部分を、以下に置換して引用してみる。それが自ずと私の指摘の正確さを語っている。

《置換文》
 社会学的に見てマスメディアとは何かと議論すれば「一回かぎりの行為であってもジャーナリズムたりえる」が、では実際一度きりの情報がたとえ素晴らしいものであったとして、それがマスメディアとして機能すんのかを考えればそんなことはありえないことぐらい気づくだろう。

 また、ジャーナリズムは「装置によって稼働する『情報産業』ではない」という引用がされているが、マスメディアもある種の商品を扱っている以上、その継続性、品質維持を前提として装置化するというほうが有利に決まっている。

 同様に、報道する装置、マスメディアというものは多かれ少なかれ統治のツールであって、本質的に「個人でもジャーナリズム」という議論の延長線上に来るものではなかろう。《ここまで》


《原文も挙げておく》
 社会学的に見て報道とは何かと議論すれば「一回かぎりの行為であってもジャーナリズムたりえる」が、では実際一度きりの情報がたとえ素晴らしいものであったとして、それが報道として機能すんのかを考えればそんなことはありえないことぐらい気づくだろう。

 また、ジャーナリズムは「装置によって稼働する『情報産業』ではない」という引用がされているが、ジャーナリズムもある種の商品を扱っている以上、その継続性、品質維持を前提として装置化するというほうが有利に決まっている。

 同様に、報道する装置、報道機関というものは多かれ少なかれ統治のツールであって、本質的に「個人でもジャーナリズム」という議論の延長線上に来るものではなかろう。《ここまで》


 私も職業的ジャーナリストとして20年以上、生きているが「統治のツールであろうとしたことなど」ただの一瞬もない。氏のエントリーのトラックバックを参照すると「切込隊長」氏の、この意見に賛成する方がいらっしゃるようだが、氏の「2ちゃんねる」的ファンの底の浅さ、志の低さが滲み出ている瞬間に出会わせたと感じる。あなた達はそんなジャーナリズムを欲しているのか。そんなことをこれまで書き連ねてきたのではなかろう。「2ちゃんねる」の最良の部分はもう消えてしまった。皮肉を込めて申し上げる。

 ジャーナリズムが何かが判ってから、それをブログの世界でどう展開するのか、実社会にどう影響させるのか、議論するのは意味があると考えるが、いきなりマスメディアの機能をどう持たせるか議論するのは全くの無駄である。

 ところで「R30」氏は「ネットジャーナリズム・ウヨサヨ論」で「何で切込隊長とか湯川氏とか僕とかがこんなに口角泡をとばしてネットジャーナリズムの産業化の可能性について議論してるのか、全然わかんなくなっちゃうじゃーん」とおっしゃっている。お気遣い無く、ご自分のペースで議論をされたらと思う。
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# by ydando | 2004-12-03 00:22 | ジャーナリズム
誰だってジャーナリスト~プロだけのものではない
 素人が参加するジャーナリズムについて最近、ブログの上で読むのが大変なぐらい長くて、熱い議論が交わされてきました。そんなに難しいことかいな、シンプルな話ではないか、と私は思っています。基本は「誰だってジャーナリスト」なのです。マスコミュニケーションという現象と、ジャーナリズムという理念をごっちゃにしているから、何について話しているのか錯綜して通じなくなるのです。

 親サイトにある第150回「ネットと既成とジャーナリズム横断」の前半部に書いた通り、ジャーナリズムとは当該市民社会において「隠されがちな事実を伝え、見えなかった意味を言う」ことなのです。これはプロにも素人にも限定されません。そのあたりのいい加減なプロより、特定の分野に限ってはずっと詳しい素人が輩出しています。その素人の皆さんがプロに書けない「見えなかった意味」を明らかにしてもらえるなら、立派なジャーナリストだと考えます。

 「それはお前だけの意見だろう」と言われるかも知れないので、社会学の野村一夫さんが開設している有名なサイト「ソキウス」から「社会学感覚 12 ジャーナリズム論」を開いていただきましょう。「ジャーナリズムとはなにか」の項で亡くなられた新井直之さんの言葉を引きながらこう書かれています。

 「一回かぎりの行為であってもジャーナリズムたりえるし、組織である必要もない。『ジャーナリズムの活動は、あらゆる人がなし得る。ただ、その活動を、日々行ない続けるものが、専門的ジャーナリストといわれるだけなのである』。組織ジャーナリストやフリー・ジャーナリストはもちろん、公害企業の内部告発者も、地域の問題にとりくむ市民運動家も、ジャーナリズムの主体たりえる」

 このジャーナリズム論には是非読んで欲しい指摘が随所にあります。例えば「ジャーナリストの内部的自由」の項です。「しばしば誤解されていることだが、そもそもジャーナリズムは装置によって稼働する『情報産業』ではない。ジャーナリストの主体的な現実把握・解釈・表現行為があってはじめてなりたつ主体的な活動である。したがって、ジャーナリストに主体的な活動の自由がなければ本来のジャーナリズムは実現できない」

 社員がインターネットのホームページに何を書くかまで規制してくるマスメディアのありようは、かなりおかしいのです。

 増補部分「ジャーナリズムの社会学へ」の項にある次の指摘も、目から鱗が落ちる思いがされる方があるのではありませんか。

 「マス・メディアの問題を『報道』として問題にするとキャスターのコメントは『よけいなもの』として問題化されるが、『ジャーナリズム』として考えると、コメント行為自体は当然視され、内容吟味に焦点が向けられる。その意味で今なお『ジャーナリズム』は誤解されているように思う」
 「この誤解の源は日本の新聞界が長年標榜してきた『客観報道主義』を人びとが信じていることにある。この素朴な幻想が現実に破綻していることを知りながらも、いざマスコミ批判を口にするとき人びとはこの幻想に無自覚に乗ってしまうようである」

 ジャーナリストが虚偽の「意味」を吹聴しては話になりませんが、素人の皆さんも自分の知性・感性を磨いて現実世界を探索して「隠されがちな事実を伝え、見えなかった意味を言う」しか、なすべき事はありません。

   ◇

 《トラックバックやコメントをされた方たちへ》ようやく[ブログ時評01]を公開しました。いろいろ期待していただいたことに感謝しています。ブログの性質上、「インターネットで読み解く!」の連載よりも短く仕上げることにしています。「ニート」の場合はこれが限度でしょうか。是非、取り上げているブログの生の主張を読んでいただき、栃内さんの言われるような「大きな言論空間を実感」してください。岩波書店の月刊誌「世界」新年号(12月8日発売)の座談会「『言論』の場をどこにつくるか~ネット・ジャーナリズムの可能性」がこのブログの出発点ですから。
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# by ydando | 2004-12-01 02:38 | ジャーナリズム
ニートだけか、生き方の迷い子たち [ブログ時評01]
 2004年5月にフリーター問題の陰に隠れて見えなかった働かぬ若年層「ニート」(NEET:Not in Employment, Education or Training)の存在が表面化し、秋になると各種の統計データが出され、ブログの世界あちこちで議論が盛り上がっている。厚生労働省のまとめでは2003年現在、15~34歳層で、フリーター217万人、働く意欲はある失業者164万人に対し、働くことも学ぶことも放棄しているニートは52万人とされる。

 最新のヒットは「R::30マーケティング社会時評」の「ニートになりたい僕たち」。「要するに結婚してない無職男性がカジテツって自称できないからニートなんだね。女性は結婚せず仕事もしなくてもカジテツかよ。男でもカジテツって呼べよ!とか思うのは僕だけだろうか」と意外な切り口を打ち出した。

 「実は以前から人に『将来何を目指しているの?』と聞かれるたびに『専業主夫』と、半ば冗談で答えるようにしている」「僕がニートという言葉に何かもやもやしたものを感じていた理由というのは、この言葉自体が『いい年した男性は結婚して働いているべきだ』という社会的偏見をたっぷりと含んでいるからじゃないのか」と、世間的常識にしっぺ返しをしたのが受けて、3日間で6000人以上が訪れたそうだ。

 むしろ面白いのは、これに続いて書いた「結婚したら負けかなと思ってる」で「ニートと非婚化の何が共通しているかというと、それは親の存在だ。ニートでも『むりやり就職しなくてもいいという親』の存在がニートを(経済的、精神的に)許してしまっているという声があるが、結婚だって同じなのである」と少子・非婚化との関わりを見つけている点だろう。ニートの親世代はいわゆる団塊の世代であり、夫婦は自分勝手をしている家庭内別居状態が多い。そんな結婚をしてもと子ども世代は思う。同様に会社人間の父親の背中を見て、こうはなりたくないと思う若者が出て不思議はない。

 「ホームレス問題対策と自立支援:ミッドナイト・ホームレス・ブルー」の「ニートと引きこもり&フリーター(1)」も気になる問題の立て方をしている。裏付けには当事者だからこその実感も混じっているかも知れない。

 「ホームレスのアンケート調査などを比べると、引きこもりと似通った点が多い」「少なくともホームレスの一部は、まずまちがいなく引きこもりとおなじメンタリティを持っているだろう」「ホームレスの問題を単なる失業問題と同意に解釈している人も多いと思う。だが、単なる失業者ならいざ知らず、ニートや引きこもりは明らかに雇用の問題ではない。そして、彼らがなんらかの事情で住む家を失ったとき、その先に待ち受けているのはホームレス状態である」

 ブログ上にはニートあるいは、その寸前らしい人のものも幾つも見つけられる。「ターミネイターにならないために--フリーターの本当の姿を知ってください! フリーターが語る渡り奉公人事情 」の「ガラスの板~赤信号」は、服がボロボロで面接に行けなくなる、服毒自殺に失敗、街角のフリーペーパー情報誌にさえ手が出せなくなる「退行」の例を恐ろしくリアルに読ませてくれる。フリーターからニートや引きこもり、ホームレスと結ぶ内的な脈絡が存在すると考えてよかろう。

 こうして52万人ニートの問題は、非婚化からホームレスまで実に幅広い社会的関連を持つと知れる。ニートは英国で出来た概念だが、日本でも同じ実情・実態と考えるべきではなかろう。このあたりで専門家の意見も聞いてみたい。

 「ニート――フリーターでもなく失業者でもなく」(幻冬舎)を書いた玄田有史・東大助教授にインタビューをしてきたという「Talk & Diary」の「"個性"を強制する教育システム??」は玄田助教授の言葉としてこう伝える。

 「ニートの一番の問題は、『何でもかんでも個性を出せという教育だ』とおっしゃった。『個性なんてみんなにあるもんじゃない。特に個性や才能のない人はどうすればいいの?普通の人にとって、とても生きにくい世の中になっている。そういう意味では、ニートというのは特別な問題ではなく、この社会のすべての人の問題なのだ』というのだ」。そして、作者は、学区制を廃止した上で生徒が選択できるよう各都立高校に特徴を出せと簡単に言い募る都教委の姿勢に疑問を投げる。日本の社会はどうしてかくも、みんな一律が好きなのか。少し前までは平均点の子ばかりにしようとし、気が付けば、今度はみんな個性がある子ばかりとは。

 マスメディアがこれまで伝えてきた中には、ニートに発達障害のようなものが関係する見方もある。一部に可能性があることは否定しないが、本筋は違おう。私が2年前に書いた第124回「少子化対策の的は外れるばかり」で、精神分析家・野田正彰さんの講演「少年犯罪と教育―エピソードを持って生きよう」を引用している。

 「欧米でも『一人っ子的二人っ子』は日本より早く到来しましたが、日本とは対処が違いました。欧米では、子どもたちどうしの社会をつくることを進めた」「日本では、細切れのスキルを付けさせようとしました。この結果、自閉型の遊びが増えました。ゲームウオッチ、テレビゲームがそれです」
 「その結果か、感情表現が乏しくなりました」「奇妙なことに、『心が傷つく』という不可思議な言葉が当り前に多用されるようになりました」「傷つかなければ人間でないように思い始め、さらに『心が傷つく』と、『心』を実体化させるようになりました。『心』は実体ではなく、人と人との関係の中で生まれるものにもかかわらず、『心』を実体化させることによって、ただ耐えるだけになってしまった」

 他人と結んだ関係の中にこそ、その人の本質が存在する――社会的動物としての人間存在が理解されず、日本では特異な誤解が広まってしまった。非婚化は相手を考えない身勝手な結婚観を自分の「心」だと決めつける結果だし、他人との間に関係を築くトレーニングが乏しいために、引きこもりから抜け出しにくい。それは少年犯罪、ホームレス状態へも延びていく。10年、20年先を考えることもなく、少子化対策に表面的な手しか打てない政府と合わせて「国に続き個人も生き方モデルを見失った」と私は総括した。

 米国ではニートや引きこもりは問題にならないし、女性が一生に産む子供の数、合計特殊出生率が「2」を超える唯一の先進国である。ヒスパニック系が持ち上げている面があるものの白人も出生率が高い。何故だろう。私が推察するところ宗教の力だ。ブッシュ大統領再選には宗教右派の力が絶大だったとされる。葬式宗教ばかりの日本人と違い、日曜以外にも教会に足を運ぶ人たちは「生き方の迷い子」にはならないはずである。

追補】米国の市民生活における宗教の大きさは、日本人の理解を超えるかもしれない。第29回「過労死と働くことの意味」で紹介した「仕事中心性・国際調査」では個人生活を100点満点で評価して、「レジャー、地域社会、仕事、宗教、家庭」の5部門に割り振ると、米国人は宗教に10点くらいを配分するのが当たり前になっている。
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# by ydando | 2004-11-28 15:31 | 社会・教育
検索デスクの「ブログ検索」はかなり有用
 何でブログ時評など始めるのか、と思われている昔からの読者もいらっしゃるようです。もちろん素手で取り組むのは無謀ですが、元大阪府立大の浅井さんが作られている検索デスクの「ブログ検索」一覧はなかなか使えるとの感触を得ています。ちょうど「ネットは新聞を殺すのかblog」では「参加型ジャーナリズムは技術革新待ちの状態」と書かれていますが、書かれているようなハイテク環境が本当に働くのか疑問に感じます。少なくも私が1997年にgooやinfoseekを活用して「インターネットで読み解く!」を始めたころ以上の環境が、ブログの世界には用意されているようです。

 どんなものになるか、まだ決めていませんが、まずは初回を見て下さい。この「ブログ検索」はブロガーの皆さんが、自分が関心を持てるブログを探し出すのにも有用だと思います。
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# by ydando | 2004-11-26 00:29 | ネット
「ブログ時評」をオープンします
 このブログを開設した事情は、親サイトにある連載第150回「ネットと既成とジャーナリズム横断」に詳しく書きました。ブログからメールマガジン、個人ニュースサイトといったネット・ジャーナリズムと、既成メディアとを横断する太い橋を架けてしまうプロジェクトの始まりです。

 全国紙の記者をしながら、ネットの世界に最初に関わったのが1988年。記者コラム「インターネットで読み解く!」を始めてからでも7年余りになります。この間、第100回「ネット・ジャーナリズム確立の時」でメールマガジンを語り、第128回「ニュースサイトが生む津波アクセス」で個人ニュースサイトを位置づけてきた経過があります。関心を持たれたら、お読み下さい。

 新聞に「論壇時評」があるようにブログの世界を批評するつもりです。広く一般の人たちが読んで納得がいくレベルに仕上げたいもの。当然ながら引用が必要になりますが、著作権法で認められている正当な引用の作法は守ります。

 当面は、毎週日曜日に更新していきます。皆さんからのコメントやトラックバック、掲示板への推薦・情報提供は歓迎します。途中に適宜、コメントが入れられたら良いでしょうが、仕事をしている関係で難しいかも知れません。その点はお断りしておきます。
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# by ydando | 2004-11-25 00:46 | ネット