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by ydando
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グローバル競争社会化の元凶は日本 [ブログ時評05]
 ニートについての議論が奇怪なほど盛り上がりを見せ、国際調査データが発表された学力低下問題と合わせて、ブログの世界で教育についての関心が高まっている。底流は競争社会からのドロップアウトへの関心だろう。そんな中で、競争社会で子どもをどう育てるか議論しているグループを見つけた。「ベンチャー企業社長の挑戦、そして苦闘」の「競争社会を生き抜くために(2)」や、「at most countable」の「やっぱり『子供は大人社会の鏡』だと思う」を中心にしたエントリー、トラックバック、コメントである。

 「競争社会を生き抜くために(2)」は「人格が形成される時期から、競争・勝ち負けを体験し、想像力・創造性を養う――この2点が必要だと思います。
そして、残念ながら、今の社会は、この2点に加速しながら逆行していっていると思えてなりません」と学校教育の現状を指弾する。親たちの過敏なまでの反応・圧力でそう出来なくなっている点について、「やっぱり『子供は大人社会の鏡』だと思う」は「勝ち負けに対して大らかでいられなくなったのは」社会全体の風潮が「『勝ち負けが全て』みたいな価値観が支配的になってしまっているから、学校現場の他愛のない『勝ち負け』すら『シャレにならなく』感じられてしまう、そう思えるんです」と応えている。

 ニートを巡る様々な議論を読んで感じたことであるが、いま個人が立っている地点では納得できる事柄かも知れず、若い世代の方がブログを書いているとしたら、社会に目を向け始めた頃は既に90年代の「失われた10年」だったかも知れない。そこからの長い長い閉塞で、年長の方にも、今あることがずっと続いているかの錯覚に陥っていないか。戦後日本史だけでなく世界まで目を広げた同時代史の視野を持てば、自ずと違う見方が出来る。

 まず第一に知って欲しい。競争社会は海外から押しつけられたものではなく、グローバル競争社会化を仕掛けた元凶は日本なのである。99年に私の連載第68回「日本の自動車産業が開いた禁断」でこう書いた。

 日本自動車産業で開発され「日本の専売特許のように思われていた『リーン生産方式』は、世界中に広まってしまった。私はこれがもてはやされた始めた頃から、ふたつの点で懐疑的だった。まず、労働は人間文化であり、社会の存在のありようと密着している。その国の労働のありようを根こそぎ変えることが許されるのか」「もうひとつは、現実に起きていることである。総合的(全社的)品質管理TQCは偉大な成果を挙げたが、所詮はきちんと測定して統計データを採っていけば、誰にでも可能なことである。きちんとやり通すことは日本人の専売ではない。徹底的にやるという意味では、米国人に歩がある」

 90年代初頭のバブル崩壊と経済財政運営の失敗で始まった「失われた10年」の印象が強烈過ぎて、80年代に「ジャパン・アズ・ナンバーワン」と米国を凌駕するとまで謳われた時代に何があったか忘れられていよう。日本の自動車産業や家電産業は「安かろう悪かろう」から出発して、世界を押しまくり、結果として世界の労働文化の多様性を大いに壊した。

 その優位性は物づくり現場周辺に限られ、豊かな創造力はソニーなどほんの一握りのメーカーが具現しただけだった。独自労働文化が倒され、何でもありになった欧米の産業界にとって追いつくのは苦ではない。さらに経営者を含めたホワイトカラーの力量差はもともと大きく、政治・行政を含めた立ち後れはどんどん進んでいる。それは第69回「続・日本の自動車産業が開いた禁断」で描いた。90年代初頭の崩壊劇が無くとも逆転必至、いや、あの崩壊劇そのものが政府にもアカデミズムにもマスメディアにも一国の経済運営を見通す眼力が無い、「砂上の経済世界一」の証明であった。

 「ジャパン・アズ・ナンバーワン」の80年代、教育の世界でも大きな変動が起きていた。学校内が安全でなくなる事態、子ども同士が傷つけ合う――これまでの常識になかった。私は第95回「学力低下問題の最深層をえぐる」で「プロ教師の会」を主宰する中学教諭の河上亮一さんの発言として、起きている事態をこう紹介している。

 「十数年前からそれ以前と全く違った『新しい子ども』たちが登場したのではないかという感じを持っています」「特徴はひ弱で、しかも他方で非常に強いと言いましょうか、攻撃的と言いましょうか」「生徒たちは学校で学ぶ姿勢というんでしょうか、学ぼうという意欲を大幅に低下させているという気がします。30年前の中学生と現在の中学生を比べますと、学校での学ぶ姿勢は大きく低下していると思います」「基本的に学校というところで何を学ぶ必要があるのかないのか、こういうことが子どもも含めて親についてもはっきりしなくなっているんではないだろうか。こんな感じを持っています」

 この世代こそ「団塊の世代ジュニア」であり、団塊の世代の生き方をコピーしていた。もちろん、華々しい学園闘争などを戦った青春像のコピーではない。戦後の知性を批判し、偶像を破壊した割には自分たちが主役の時代になっても新しいものを生まなかった。いや、主役になろうとせず、「老害」と呼ばれる世代に喜々として追従し続けた。第一次石油ショックの前に社会に出て就職してしまい、成長社会の中、右肩上がりの安寧をむさぼり、前例踏襲主義の管理職になり高収入を得てきた。その生き方の反映である。

 この世代に対して採られた国の迎合施策が、世界に冠たる存在だった教科学習の間引き、ゆとり化、受験戦争の表面的な緩和だった。

 一方、グローバル競争社会化に対処するため高等教育に期待が掛けられるはずだったが、理系も文系も研究者たちには他流試合を挑むどころか、自分の周辺に深い蛸壺を掘るスタイルが蔓延した。国際級の研究成果なら世界共通基準で価値が計れたが、多くの研究は「蛸壺」の外に出してみると、どこで何と関係しているのか、どんな価値があるのか見えなくなった。第74回「大学の混迷は深まるばかり」では以下のように言うしかなくなった。

 この国の大学と大学生から世界に通用するベンチャーがなかなか生まれない理由も、自ずと明らかだろう。我々の社会が持つ大学教育の「仕組み」は、酷な言い方をすると、個性的、創造的なものを排除する方向にある。本来、大学は創造的な空間のはずだが、何が創造的なのか、私の体験で述べたように大学人にも分からなくなっているのだから、創造的であり得ようはずがない。

 団塊の世代を含む中高年層は、自ら起こしたグローバル競争社会化のツケを次世代にまるまる負わせて良いのだろうか。小泉改革の登場に、私は大甘を承知で、英ブレア政権の改革とダブらせてエールを送った。しかし、労働党の変革と一体になっている英国と違い、小泉「個人芸」改革はやはり本質的な改革になっていない。企業は国際競争の激化、業界ごとの横並び・護送船団方式崩壊から業務外部化や派遣労働導入で社員採用のハードルを上げた。ここに至っても最後まで新しい社会像を作ろうとしなかった団塊の世代は、家庭内でもニートやフリーターのような逃げの存在を作り出した。このまま退場して年金生活に入るのなら、二重の意味で罪作りではないか。
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# by ydando | 2005-01-03 16:51 | 世界
十分に警察国家であると気付かれぬとは [ブログ時評04]
 全国の警察のトップ「国家公安委員長」を務めた経歴がある元自治相・白川勝彦氏が、渋谷の街頭で突然、警察官4人組に取り囲まれ、動くこともままならない状態で違法と言うべき「執拗に身体検査をしようとする」職務質問を受けたと、自らのウェブに長文の一部始終レポートを書いて話題になっている。「忍び寄る警察国家の影」で、一部のスポーツ紙やテレビ番組でも紹介された。

 弁護士でもある白川氏は「いま私が受けていることがこの職務質問であるとしたならば空恐ろしいことであり、曖昧に済ますことはできないと思ったのです」と、渋谷署まで乗り込んで抗議した。副署長が出てきて白川氏と判ってから「今日の職務質問で一番問題だったことは、ズボンのポケットの中のものを見せなさいといって、ズボンの上から強く触ったことである。見せる見せないは、あくまで私の意思でやることであって、これを強制する権限は君たちにない。『怪しいものがないのなら、見せてもいいじゃないですか』と君たちは執拗にいったが、それは根本が違うのだ」と説教している。

 そして、「私が受けたような職務質問が公然と許されるようになれば、わが国は早晩警察国家となるでしょう」との結論になるのだが、ブログの世界では素直に読んで、額面通り素直に驚く人ばかりではない。選挙に敗れ、野に下った白川氏が今ごろ気付いても遅いのではないか。

 以前に活動家の経験がある「旗旗」の「元国家公安委員長・自治大臣が警察被害に遭遇」は、もう日常的に行われていることだと指摘する。「昭和天皇在位60年式典の当日には、会場近くの両国駅から降りる人全員に所持品検査が強制され、女性のハンドバッグの中まで開けさせています。これらが決して『任意』と言えないのは、当の白川先生自身が身を持って経験されたことですよね!」

 「現在は、警察の『民主性』に次いで、かろうじて『建て前』としてのみ維持されてきた『政治的中立性』が大きくゆらいでいます。つまり、目的意識的にイラク戦争に反対する主張を潰そうという意図が、あまりにも露骨に表れてきています。今の公安は『お国にたてつくものを弾圧する』という政治警察そのものになりつつあります。その相手が『過激派』だろうが市民運動だろうが個人だろうが関係ありません」。その公安警察のイラク反戦デモへの生々しい規制ぶり、罵倒ぶりが動画として記録、公開されており必見である。活動家歴が気になる方も映像を見て判断されたい。

 最近、秋葉原付近では職務質問が強化されているらしい。「さいくろん光画録」の「2004年11月11日(木) はわわ…そんなバカナー!」はパソコンのばらし道具一式の中にあった多機能「レザーマンナイフ」所持で軽犯罪法違反とされ、任意同行された状況を描いている。

 「警官に囲まれ、取調室のあるらしい4階へと向かう」「そこで全身くまなく探られるんですよっ!。高圧的な態度の偉そうな人が出てきて『協力的でないと逮捕するかもしれないっ!』と脅しますっ!」「釣りやキャンプなどの『ナイフを使うシチュエーション』で持ち歩くのは問題無いらしいのだ」「秋葉でパソコンばらすのに必要だから持ち歩いていたんだけどなぁ…」「どうもそれじゃ理由にならないらしいっ」。

 これで取り扱いに抗議でもしてトラブルでも起きれば、公務執行妨害で逮捕が常套手段と化しているという。他の所轄署の範囲まで越境して職務質問で検挙件数を稼ぐ例など、ブログ上には関連する様々な話題がある。

 12月16日には、立川市の市民団体メンバー3人が反戦ビラ配布事件で無罪判決を得た。防衛庁官舎の新聞受けに入れたことが、住居侵入罪になると突然、逮捕され、75日間も勾留が続けられた。東京地裁八王子支部判決は「憲法で保証された政治的表現活動の一つであり、刑事罰にするほどの違法性はない」と明快だったが、非常に押さえた報道しかしない全国紙が出たことは驚きだった。また、裁判所のありようにも実は疑問がある。

 「虎視牛歩」の「妥協としか言わざるを得ない反戦ビラ配り判決」は判決を簡単に賞賛はできないとする立場だ。「ビラ配布から一か月以上もたってから、前触れもなくいきなり逮捕、と同時に家宅捜索(ガサ)で根こそぎ資料を押収され、そして警察発表による報道の垂れ流し。さらに接見禁止をつけられての勾留が二ヶ月を越えている」「この苦痛を裁判所は容認したのである。公訴棄却という検察や警察に対するペナルティがあってしかるべきなのに、公訴棄却は退けた。どう考えても警察・検察による弾圧目的の逮捕・起訴を追認したことにならないだろうか? というか、公訴棄却を避けたことにより、今後この種の弾圧があっても構わないという容認の姿勢が顕著ではないか。警察も検察もペナルティどころか控訴して失地回復する余地すらある」

 「辺境通信」の「反戦ビラ入れで無罪判決」は5月14日付の東京新聞の内容をこう引用している。「調べは一日六時間から八時間。『運動なんかやめろ』『この寄生虫』『自転車で立川を走れないようにしてやる』『おまえは鉄砲玉。ほかの連中は責任を押しつけるつもりだ』。・・・実家にも『娘さんはヤクザの使い走りをしている』と電話があったという」。そして「逮捕されたメンバーの一人が『人権と報道・連絡会』主催のシンポジウム(11月20日開催)で語ったところによると、『取り調べの7~8割は人格攻撃』だったそうだ」と指摘している。上述のデモ規制動画に現れる刑事たちと75日間、想像するだに精神的拷問である。

 お国に逆らえば見せしめとして、こんなことも出来る――汚い取り調べが可能だったのは裁判所が長期に勾留延長を認めたからである。警察内部でも、公安警察主導で進んだ捜査への反省はおそらくないのではないか。入社して4年間はサツ回りしかしなかったこともあり「公安がこんなことで反省したら仕事にならない」と思うだろうと透けて見える。淡々としているマスメディアが出ると、暗に支持されていると感じよう。それにしても、これだけ警察国家になっているのに、近年、重要な事件で犯人が捕まらない印象が強い。犯罪捜査能力は全国的に落ちていると同僚と話し合ったことがある。外国人犯罪増加だけでない、犯罪者側の構造的な変化に後れをとっていないか。
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# by ydando | 2004-12-19 15:04 | 政治・経済
「誰だってジャーナリスト」で、どこまで行けたか(2)
 今回の「学力・読解力低下で知る危うい国家戦略 [ブログ時評03]」を書くために、どれくらいのブログを読んだか。金曜の夜と土曜の朝とで250本以上は読みました。 検索デスクのブログ検索を使った分と、面白い内容のブログにトラックバックしている所と合わせた数です。これから、収集用ソフト「Internet Ninja」にそっくり取り込んだブログが45本です。取り込むときに、私の問題意識に引っかかった中身別にマークを付けておきます。

 土曜の午後に45本を再度、読み、気になった部分を取り出してテキストを並べます。通して意味を持たせるように並べる順番を入れ替え、私のコメントを加えることでストーリーにしてしまいます。取り出したテキストは十数本あったのですが、最終的に9本だけが残りました。念のために一晩、寝かせて、翌朝、気になった細部をリファインしてから公開です。これが今回の全作業です。この間、紙は全く使わず、全てパソコンの画面上で処理します。

 これだけの作業でマスメディアが準備したものの多くを抜く、かなり突っ込んだ中身になるのですから、「衆知」を集めるのは強いのです。

 ところで、これだけの数を読んだから言わせていただくと、インターネット検索を一度も使わずにいきなり書いてしまう人が圧倒的に多いと考えられます。書き出す前に、まず立ち止まって検索ぐらいしましょう。質的向上の第一歩です。

 実は4年前に、第95回「学力低下問題の最深層をえぐる」を書いています。各所で評判になったコラムで、「学力低下」をキーワードにすればgoogleでもyahooでもMSNでもまず目に入ってくるはずです。このコラムを読まれた上で書かれている方ももちろんいらっしゃいましたが、極少でしたね。残念ながら話がややこしくなるので、今回はそういう方のブログは敢えて除いて構成しました。

 もうひとつ気になったのが、データを使わない記述です。学力問題は誰にでもオリジナルなデータがある素材です。記憶の底から呼び戻して書いてほしいところです。あるいは自分の知性で新しい断面を切り出すか。そのような努力をしないと単なる茶飲み話になってしまいます。

 これからも読むに値するブログを発掘する作業を続けますが、これまでの3作品をご覧いただいて、何がアピールするのか、他人に読ませるために書くスタンスを磨くべく、考え直してみてください。
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# by ydando | 2004-12-16 22:39 | ジャーナリズム
「誰だってジャーナリスト」で、どこまで行けたか
 「学力・読解力低下で知る危うい国家戦略 [ブログ時評03]」はある意味では誰にでも書くことがあるテーマでした。自ら学校教育で学び、また親として、教師として子どもを見てと、関わってきた立場は色々でも必ず該当します。では私が先に掲げた「誰だってジャーナリスト~プロだけのものではない」との立場で「素人ジャーナリズム」の成果を検証してみましょう。

 OECD学習到達度調査のような大規模で複雑な発表は、通常、1週間くらい前に記者クラブで全資料をマスメディアに提供してしまい、解禁日まで公表しないとの「縛り」を掛けます。それから、ゆっくり各方面に取材して、当日、大きく紙面に取り上げることになります。マスメディア側には十分な余裕があります。

 今回、大きな焦点は読解力でしたが、これについてマスメディア側に目覚ましい「解読」は見あたりませんでした。読書量の減少は既知のことですし、ネットや携帯電話との関連は、証拠やメカニズムを示さないと言っただけに終わることは明白です。マスコミ業界用語で「書き得」ですが、実は「逃げ」です。

 [ブログ時評03]で取り上げさせていただいたブログは、7日の発表から3日間くらいで書かれたものです。読解力問題の意味や、高め方、その実践の難しさについて引用した論考は、マスメディアの水準を超えているでしょう。読解力の国際性や「キレやすい子どもたち」にまで展開できたのは大きな収穫だと思います。

 教科内容削減・ゆとり教育導入の影響については、お母さん二人の立場で相反する書き込みを取り上げました。でも、進学コースから外れた高校のカリキュラムの実態と、今の小学校の授業の有り様と、実情を教えていただけて、読む側には新鮮だったのではないでしょうか。少なくもマスメディアに出る話ではありません。

 生活科が登場した頃について書かれた、お母さんと元教諭の経験談も、今だからこそ次の生かすために真剣に考えるべき中身を含んでいます。「私は退職しているので、本音が言えたんですが、現職でもそう思ってる人、いっぱいいますよ」というコメントが寄せられています。個別の状況を積み重ねることは一見、無駄のようで「素人ジャーナリズム」としては大きな力になる気がしています。

 フィンランドでは成功したとされる「総合的な学習」。国内の教育現場にいた方、フィンランドに学ぼうとした方からの発言を持ち出しました。そうしてみて分かる彼我、拠って立つ基盤の差、あまりのことに呆然です。

(※注=ちょっと甘口だったかな。次のエントリーでは、どのくらいの数を読んでこの[ブログ時評03]が出来たのか種明かし、その作り方と、ブログの現状、どこを不満に思っているか、との表明をします)
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# by ydando | 2004-12-14 02:09 | ジャーナリズム
学力・読解力低下で知る危うい国家戦略 [ブログ時評03]
 経済協力開発機構(OECD)による主要41カ国・地域の生徒の2003年学習到達度調査結果が12月7日に公表され、前回2000年に比べて数学的活用力が1位から6位、読解力は8位から14位に落ちた。文部科学省は「我が国の学力は世界トップレベルとはいえない状況」と言い出した。日本人生徒に白紙提出が続出した読解力の今回問題は公表されなかったが、前回分は読むことができ、落書きについて対立する二人の手紙から言い分をくみ取って記述する構成になっている。

 「極東ブログ」の「日本学生の読解力低下が問題ではなく文化差異が問題だ」は、問題の手紙文を前にして「私は、ちょっと文化的な目眩感を感じた」「私は、どっちかというとかなり欧米的な高等教育を受けたし周りに非日本人の学友もそれなりにいた。で、あいつらは、そう、こんなふうに言うのだ。そう、こういうふうに自分の意見をがなりたてるのだ」と気付く。日本人にはどうでもいいだろうと思えることでも、議論を始めたら執拗である。

 私がドイツに取材に行ったとき、通訳の人が「この人たちは同じような中身を、言い方を変えて前後3回言わないと気が済まないんですよ」と嘆息した。しかし、国際的にビジネスしようとすれば、議論とはそんな面倒を嫌っていられないものだろう。「極東ブログ」も日本人には不向きとは認めつつ「どうしたらいい? 結論はついている。こうした読解力を高める以外に日本人が今後の世界を生きていく道なんかないよ、である」とする。

 教育現場にいた経験がある人たちには、読解力低下は周知の事実である。「くろねこ@国語塾」の「日本の高校生の読解力低下」は「某予備校の現代文講師を1年ほどやっていました」「『“自尊心”を外来語で言ってくれ』と当てると『“外来語”って何?』などと返ってきて驚愕したことも数知れず。おいおい18歳超してて理系クラス、しかも偏差値高いはずやのにどーなってんねんと疑問に思ったものです。基本的な『語彙力』が足りなくなっている気もします」と明かす。

 「それ以上に、読解力は『ひと粘りする忍耐力』という側面があります。 また子どもの『粘り』=『読解力』が無い理由として、世の中総じて『感情』が先に立ちすぎている感じがします。世の中には感情論が溢れ、少し論理的に考えればさして問題でないことや解決するにはたった一つの方法しか無いことに、引きずり回され過ぎている。筋道立てて周りにも目を配りながら論理的に考えることを封印して『自分が快か不快か』だけで感情を撒き散らしていると、起こった出来事に対しての理解力・判断力が失われてしまいます」

 「キレやすい子どもたち」、社会性に乏しくなった子どもたちの姿が読解力問題の背景にあるのだ。テスト対象は、義務教育修了15歳の生徒から無作為で選ばれている。この生徒達は、まだ学校週5日制が完全実施される前に当たる。次回学習到達度調査がある3年後にはどうなるのか、非常に悲観的な声を多数聞いた。

 それではどうしたら良いのか。塾講師などの経験から導いているのが「Motto」の「読解力(1)」。現状の問題点を「・文章の内容がわからない。・思ったことを表現できない。・自分ひとりで考えられない」の3点と指摘する。「これは実際に私が家庭教師や塾講師をやって、100人くらいの生徒をみて調査した結果」。だから例えばゲームをして面白いことがあっても、うまく説明できないような子への対策として「子供たちとのコミュニケーションを保ちつつ、こちらでは無理に内容を理解しようとしない。うまく説明させる」ように辛抱強く、し向けるのだという。

 大人が子どもに聞きまくって、頭に浮かぶイメージを言葉にさせる。学校任せでは本当は駄目なのだろう。現在、米国在住の大学生による「目標へのプロローグ」の「第23回:日本人の学力低下」が、これと似通った親の行動を伝えているのも興味深い。

 「現在六歳アメリカ人の男の子の宿題とか覗いてるんですが、親が積極的に『子供と一緒に勉強または子供が何を学んでいるのか常にチェックする』と言った日本によく見られる学校・塾依存体制から一歩先に進んでます。例えば、『ジャックとマメの木』の本を読んで、『マメの木が伸びた時のジャックの気持ちを表現してみてください』とか『話のその後がどうなったのか子供と一緒に考えてみてください』などなど本当に『学校・親・子供のトライアングル』が形成されているのには驚きました」

 教科内容3割削減の新学習指導要領、ゆとり教育導入には、子を持つ親の立場からは賛否がある。「☆jasmintea7 日記☆」の「学力低下問題について」は、やむなし派である。「現在息子が通ってる高校も総合高校ですので国語、数学、英語も2、3年では必須になっていません。じゃ、何をやってるのかと言うと個々の選択にもよりますが『農業実習』『プログラミング関係』『福祉関係』『郷土の歴史』『環境問題』等などです。美術や体育、音楽も細かなジャンルに分類されています。(たとえばゴルフ、油絵、陶芸など)」「これでは絶対に基礎教科の学力は落ちますね。でも、それは詰め込み教育の弊害が多くなった時点で上記目的への転換だったのですから仕方ないと思います」

 これに対して「tsurezure-diary」の「心のデフレスパイラル@小学校」学校への不信感を訴える。「うちにも小学生がいますが、とにかく入学以来毎日学校が嫌で、給食食べるために通っているようなもんです。嫌でたまらない理由は、授業参観してよくわかりました。クラス全体が落ち着きがない。先生が話をしている途中でタメ口で茶々を入れる。親も親で、授業中であっても平気で後ろでおしゃべり、しかも携帯鳴るし」「親自身が何で勉強する必要があるのか、ということを子どもに明確に説明できなきゃどうして子どもがそれを優先事項だと思えるのでしょうか?世の中の大人たちが、一生懸命勉強したって将来たかが知れてると身をもって示しちゃってるのに、学校への信頼感なんて子どもがもてるわけないじゃん」

 新学習指導要領に先立つ13年前に、小学校に生活科が取り入れられた。今回導入の総合的学習の先駆であり、月1回の学校週5日制も導入されて6日制が前提の教科内容が消化不良を起こすようにもなる。「落ちこぼれ」ほか、この時代から様々な問題が積み重なってきたのである。

 「nanayaのひとりごと」の「学力低下の原因はどこにある?」は自らの大変さを語る。「何がどう難解だったか。わが子が小2の時の学習内容。小学校段階で一番内容的に集中して大変な学年であった。算数は毎週のように単元が変わる。しかも脈絡のない単元の構成で、時間を習ったかと思えば、次の週は距離について、次は液体の容量、そして次は2桁3桁の数の計算など。九九が入ってくるのもこの年次であった。漢字もおそろしく多い。復習する間もなく、次の新しい内容に移行する。子どもも教師もパニックになりそうだった」「『生活科』が始まったのもこの頃。教師の力量で素晴らしい授業が期待できる半面、無駄な時間だと言い切った教師もいた。私も学習会に参加して、問題点の多さを思い知らされた。まさにこのときは低学年攻撃型指導要領だと思った」

 「鴎のキャナリン(眠る知性) 」の「小学生の低学力」も辛辣である。「『生活科』ができてから、小学生の基礎学力低下が始まった。『理科』『社会』がなくなり、保育園のお遊びタイムのようになった。その上に『ゆとりの時間』で学校は『遊びに行くところ』になった。『影』の学習が3年生になった頃。『かげってなあに?』って、普通の子に普通に聞かれた時、影を知ってる子が30数名中、3人しかいないことを知った時の驚き」「3年生というと早い子は生理になる子もいる。母親になれる身体をもって、影を知らないのである。子どもは、正直。本当にそう思った 」

 調査の結果が抜きん出ている国が北欧フィンランド。公立中教員を退職して嘱託で教壇に立つ「風のたより」の「OECDの第2回学習到達度調査(PISA)の結果が公表された」は日本の教育現場との差をこう書く。

 「『総合的な学習』については、前回も今回もトップに君臨するフィンランドの実践を真似て、僕もいろいろな授業の参考にさせてもらった。フィンランドが成功していることひとつをみても、この考え方そのものが大筋で間違っていないことは確かなのだと思う。だが、教育行政のスタンスが日本とフィンランドではまったく違う。フィンランドは、教育の地方分権を推し進め、教師の資格をより厳しく(『修士』以上に)し、サポート体制に十分な予算を投じている。日本は、教育の中央集権に執着しつづけ、教師の待遇は劣悪に放置し、『思いつき』は押しつけるが金は出さない」「何か、とんでもない間違いが放置されている。『日の丸・君が代』には血道を上げるくせに、国民の文化水準をどう高めていくか、子どもたちが『賢く』成長するために何が必要なのか、といったことには何の定見もプランもない」

 人口520万人と日本なら兵庫県くらいのフィンランド。世界最大の携帯電話メーカー、ノキアがあることでも知られる。ハイテクで生きる、この小国が教育政策に失敗したら致命的だ。一方、超大国アメリカの学習到達度調査成績は低迷しており、関係者は危機感を口にするが、それほど焦っているとも見えない。一部のエリートは育つだろうし、アジアから優秀な頭脳を大量導入すれば済む。現にそうして研究開発は成り立っている。なら、日本はどうか。一部のエリートでやっていける国か。

 皆さんが論じられている通り、学力低下には文部科学省官僚の政策的錯誤が大きいと考えている。それは「勝ち組」さえも裏切るほど場当たりである。長くなるので私の過去の連載第120回「負け組の生きる力・勝ち組の奈落」の参照を勧めたい。
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# by ydando | 2004-12-12 15:11 | 社会・教育