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by ydando
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「一太郎」製造販売禁止判決報道のずさん
 ジャストシステムのワープロソフト「一太郎」などが松下電器の特許を侵害したとして、東京地裁は製造販売禁止の判決を出した。残念なことに、先日の青色LED訴訟和解を巡る報道と同様に、多くのメディア報道は欠陥品と言わざるを得ない。一太郎ユーザーの多さから大きな扱いになっているだけに余計に杜撰さが目立っている。

 全国紙の紙面を見ただけではどれも問題点が理解不能だ。唯一、日経新聞だけが、昨年、同じような訴訟が同社の家計簿ソフトで争われ、同地裁の同じ裁判官がジャストシステム勝訴の判決を出している事情を詳しく解説し、問題のボタンがアイコンであるかどうかがポイントと教えてくれる。それでもかなり判りにくく、ITmediaの「ジャスト「一太郎」の販売中止を命じる 松下アイコン訴訟で判決」と併せ読んで理解できた。

 他紙の紙面やNHKニュースなどから知る限りでは、ジャストシステム側が判決に不満を持つ理由が全く理解できない。インターネットで流れているヘッドライン部分だけでなく、解説に当たる部分を読んでも駄目なのだから重症である。記者の専門知識不足というより、書き手が自分の頭で理解する気がないようにすら見える。細切れ記事の日常的書きすぎが原因だろうか。

 この貧しい状況でメディア報道だけしか見ていないと、某MLで科学ジャーナリストを名乗る方まで青色LED訴訟の地裁判決と控訴審和解内容が整合しないと論じてしまう結果になる。このブログの読者は「青色LED和解で理系冷遇は変わるか [ブログ時評07]」でもう理解済みのはずだが・・・。
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# by ydando | 2005-02-02 16:34 | 科学技術
予測不能なイラクの明日
 もう何ヶ月も前からイラク国民議会選挙の日、1月30日がどうなるのか、注視してきたのですが、予想された混乱に加えて、先行きが予測不能と思わせる情報が出ています。この選挙は将来に大きな禍根を残しそうです。

 まず、スンニ派住民が投票するのはやはり無理。29日付の「新イラク取材日記」「出発前だが・・・バグダッドからのメール」に、イラクの友人から送られた「誰も家の外を出歩けない」生々しい状況が出ています。「戦闘は一日中続いていて、夜も寝られない。私達は床で寝ることにしたよ。爆風で、窓やドアのガラスの破片が飛んできて怪我をしたり死んだりしたくないから」。投票所からの報道では見えてこない現実です。

 その一方で、各地にいるスンニ派の武装抵抗勢力が連合して政治的な要求が出来るまでになってきているのも事実です。選挙後には、スンニ派多数が参加できなかった選挙の正当性を激しく問う行動に出ると考えるべきでしょう。

 もうひとつの火種、北部にいるクルド人勢力は「自治か独立か、イラク・クルド人自治区で住民投票」を議会選の投票箱の横に、住民投票箱を置いて実施するそうです。住民団体が音頭を取る非公式投票ながら、クルド住民の意思が独立に向かうであろうことは容易に想像できます。

 スンニ派が異議を申し立て、クルド人勢力も独立に走るとすれば、投票実施に熱心な最大勢力のシーア派との間で内戦にもなりかねないでしょう。シーア派が主導しそうな新政府と言えば、長期の駐留が必要と言い出している米軍には撤退する気持ちはさらさら無いようですから、現在の暫定政府が選挙後は傀儡政権と呼ばれる恐れ大です。


(※今週は所用があって時間が取れなかったので、日曜日更新の「ブログ時評シリーズ」はお休みです。)
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# by ydando | 2005-01-30 20:10 | 世界
ニュースを書く感覚は発見の感覚
 「ネットは新聞を殺すのかblog」の湯川さんからトラックバック「団藤さん、ブログは今までの媒体と違うのでは」があり、良い機会なので先日の「ブログから生まれるジャーナリズムは」を補足しておきます。「ブロガーの皆さんの多くは『これはニュースになる』との感触をまだ知らない」という部分について、湯川さんは現在のマスメディアのニュース感覚だっておかしいなどの趣旨で分厚い議論をされているのですが、私はそんな難しいことを言っているのではありません。文章論としてニュースを書く感覚が足りないのです。

 ストレートな新データを書くのではなく、マスコミが伝えた事実などについて評論している場面では、多くのブログは平面的な主張をしているだけに見えます。書き始めから書き終わりまで、ほとんど議論が発展していないことも多々です。私がブログ時評シリーズで引用しているブログは、書くことによって筆者も何かを見つけるか、新しいステップに入るかしているケースが大半です。見つけることがニュース性を与えているとも言えます。

 最近の「青色LED和解で理系冷遇は変わるか [ブログ時評07]」を例に取れば、「BENLI」の「ギャンブルしなかった中村さん」は米国流の高収入システムを書き、本当はそれに乗っていないのに「理系人は米国に来なさい」と放言する中村教授の言行不一致をきれいに描き出しています。一方、「junhara's blog」の「発明貢献度なぜ5%?」は5%と書籍の印税10%の関係に気づいたところは良いのですが、リスクを取らないから5%になる点などを論じ損ねています。発見の歯車が半分しか回らなかった感じでしょうか。私が補っている部分まで自分で気づいていれば、新しい地平が見えて面白い論に発展したでしょう。

 新データを書かなくてもニュースになる文章法を挙げましょう。音楽評論家の吉田秀和さんが「私の文章修業」という本で、大相撲の勝負が決まる瞬間を描ききることで文章を磨いたエピソードを書かれていました。力士の一連の動きの中で、勝敗を決めたのはどの瞬間だった見極めるのです。時事的なニュースであっても、決定的なポイントは何か考える手法として応用可能かと思います。

 私が引用してまとめ上げているブログ時評シリーズは、紙のメディアでも通用するニュース性があると思っていますが、その基本は書くことで何かを発見する営為にあるはずです。ネットを回って何かが書けると感じた時には、必ず眼前が開けて見えていなかったことが見えたと思えます。私のジャーナリズム観「隠されがちな事実を伝え、見えなかった意味を言う」の後半部の感覚です。
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# by ydando | 2005-01-24 19:44 | ジャーナリズム
もう気付こう、文科省なんか不要だ [ブログ時評08]
 学力低下が言われる中、02年度に導入されたばかりの「総合的な学習」見直しを中山文部科学相が表明したことを受け、2月の中央教育審議会で具体的な検討が始まりそうだ。文科省が十数年掲げてきた「ゆとり教育」志向の看板が音を立てて崩れていく。

 「おぃおぃ・・・今頃になって何をあわててるんだよ! 2002年から今の学習指導要綱に基づいて、せっかくやり始めてまだ2年やん? 研究に研究を重ね、一般庶民の声に逆らって、頑張って決めたことちゃうの?」。「極私的映画論+α」の「『総合学習』の見直し」にある声が最大公約数的な、庶民の反応だろう。結果として見直し賛成でも、まず、こう言いたくなってしまう。

 「タムリンの日記」の「文科省方向転換」は「失敗の責任は誰もとらず、文科大臣を変えることによって、その気まぐれ発言により方向転換を図ろうとする、全く無責任な形で教育改革が進んでいます。あれほど、テストの点だけが学力ではない、学力に対する考え方を変えよと言っていた文科省が、他国とのテストの点での比較で、学力低下をマスコミに批判されただけで・・・。しわ寄せはすべて、現場の教員に来るわけです。こんなシステムではよい教育ができるはずがありません」と怒る。

 確かにこの方向転換は唐突である。拉致問題で首相官邸の対北朝鮮最強硬派だった中山参与の夫君が中山文科相。このご夫婦、思い込んだら梃子でも動かぬ点で似ていらっしゃる。小泉首相が組閣で中山文科相を選んだ時点で、レールは敷かれたのかも知れない。

 昨年末の文科省事務次官人事で文系の官僚ではなく技官出身の結城章夫氏が内定したことも盛り込みながら、それを少し穿(うが)って書いているのが「電脳くおりあ」の「文部科学省が変わる?」である。例の「三位一体改革」によって義務教育国庫負担金制度が廃止寸前まで行き、文科省の存在理由が揺らぎ始めている。ここで過去の束縛がない新文科首脳ラインで学力低下問題を表面化させ、社会的な危機感を煽り、文科省の存在意義を訴える手に出ている可能性がある。「私は、どんな意図があろうと、本当に本気になってかかってくれればそれでいいと思う。危機感のない中央省庁では、なくてもいいことになって当然だからだ。問題は、改革の内実だと思う」「大事なことはこれからだ。文科省が何をしようとしているのか、しっかりと見届ける必要がある」

 文科省を批判をされる方でも、その存在がまず前提になっている。それを突き抜けているブログは見つからなかった。私ならこう言いたい。「もう気付きましょう。文科省なんか要らないんですよ」と。

 今度の見直しで学校現場の混乱はさらに深まろう。総合的な学習に手を焼いていた先生は助かる。しかし、総合的な学習が得意で成果を上げていた先生まで、教科学習重視に引き戻されてしまう。欧米先進国に追いつこうとしていた時代までは、中央統制型の教育行政に意義はあったが、今となっては教育本来の姿、地方分権で現場の実情に合ったやり方に委ねるべきだ。学習指導要領なんかも要らない。教科書も自由に作り、教え方も自由。教科学習に強い先生はそこから入ればよいし、総合的な学習を駆使できる先生は生徒の「目覚まし」をして教科学習の必要性を判らせればよい。

 ただし、こうしたことが可能になるには、その地域社会が自分達の子どもは自分達で育てると覚悟を決める必要がある。お金も人手も掛けねばならない。現在、多くの先生はパソコンを自在には扱えない。今の時代に総合的な学習をするのに大きなハンディキャップになっている。それなら地域社会がボランティアを募ってもパソコン支援役を学校に送り込む。定年退職した方たちにも語り部として、生きた教材として学校に来てもらう。地域社会全体で学校を包み込むのが前提だ。

 昨年書いた「学力・読解力低下で知る危うい国家戦略 [ブログ時評03]」で描いたように学校、特に公立校の疲弊ぶりは甚だしい。きちんとした教科学習を捨てて、甘やかしや思いつきの学校運営に走ってきた。子どもや親たちの信頼も落ちている。成績の良い子は私学に流れた。ここで文科省通達で「教科学習に舵を切れ」と指令して、大きく実質が変わるとは思えない。必要なのは指令ではなく、現場への厚い、そして熱い手助けだと考える。

 こんな意見もある。若手の無党派神戸市議が「教育方針に正解はあるか?」で「戦略的に考えるならば、20年後の日本が必要とする人材ビジョンをきちんと描き、そういう人材を育てるために教育方針を定めるべきなのでしょうが、『20年後にどんな人材が必要とされるか?』など予測できない・・・というのが私の結論です」と述べ、「多様な教育機関が多様な教育を行えば、結果的に多様な特長を持った人材が育ち、時代の変化に合わせて誰かが活躍するはずです」と語っている。

 もう一度繰り返そう。中央統制教育の時代はもう終わったのだ。歴然たる失敗にまた失敗を重ねるのが目に見えている「小手先の方向転換」ではなく、教育の主体を地方の手に取り戻し、自分達の責任で子ども達を育てるしかない。子ども達のモラルの低下や生き方を見失っている問題にも、地域社会全体が取り組むしか解決法は無いのだから。
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# by ydando | 2005-01-23 02:03 | 社会・教育
ブログから生まれるジャーナリズムは
 2ヶ月、多くのブログを読みほぐす作業をした感想をまとめれば、ストレートニュースの要素はほぼインド洋大津波の被災体験記だけであり、そのほかで紹介するに値したのは、ものの見方、切り方の斬新さだった。ニートや学力低下などを巡る体験談的な話も、どちらかと言えば見方、切り方に近い。ジャーナリズムの理念をスローガン風に唱えている「隠されがちな事実を伝え、見えなかった意味を言う」に照らせば、前者は少なく、後者が大半だった。しかも、この中身はいずれもマスメディアが流している、多くの「細切れニュース」のスタイルには納まりにくい性質があると思う。おまけに、ブロガーの皆さんの多くは「これはニュースになる」との感触をまだ知らない。

 ライブドアがブロガーの中から「パブリック・ジャーナリスト」を募集して独自ニュースを流そうと準備しているのは、かなり広く知られたことだ。このブログにもそのジャーナリスト研修講座に参加した人から、率直なレポート「ライブドアのパブリックジャーナリスト研修の感想」のトラックバックが来た。私はブログ時評を始める前から、ブログの世界が現状のままであるなら、その実現性に極めて懐疑的な立場に立っている。

 一番の問題は冒頭に書いた通りだ。私が読んでニュース性があるものをうまく書くには、ライブドア・ニュースという形式が有効かどうか。従って、記事の書き方トレーニングも、従来型記事の典型的スタイル「逆三角形型」を学ぶだけで良いとは思えない。指導役のプロの記者が必ずしもオールマイティでないと認識しないといけない。実はマスメディアの供給しているニュースも、「脱・細切れ」を果たし、ストーリーテラーの部分がもっと大きくならねばと考えている。

 次に、本名で記事を書くことに慣れていない「パブリック・ジャーナリスト」に何を期待するのか。身辺ニュースとは言え、「これは問題だ」というタイプは取り上げにくいのではないか。地方紙と全国紙の役割を書けば理解しやすかろう。地方紙の記者はずっとその地域社会に住み続ける。地元に深く密着している分、深いところまで知っていて書きにくい面がある。全国紙の記者は原則として2、3年で転勤していく。知り得たことは浅いかも知れないが、全国レベルの常識に照らせばローカルルールでなされている事柄のおかしさ、不当さに気付いて、しがらみ抜きに痛烈な指摘が出来る。(どんどん転勤していくので、例えば阪神大震災の被災者らからは「いつも最初から語らねばならない」と不評なのもよく知っているが・・・)

 フリーランスのライターが記事を寄せているサイトには、既に「JANJAN」がある。私も時にのぞくが、常時、見に行かねばと思うほどチャーミングではない。当然のことだろうが、ぶれも大きいと感じる。ライブドアさんには、あれを上回るようになる確かな仕掛けがあるのだろうか。記事へのコメント欄で圧力を感じるようなことが起きないシステム的な保護策もなければ、とても本名は使えないだろうし・・・(JANJANは会員制)。他人事ながら、うまくいく想像をする方が難しい。

 しかし、ブログの世界がいつまでも同じとは思っていない。ブログ、メルマガから紙のメディアまで通して読む人に訴えられるものが何か――見てもらっていく内に、私が言っているジャーナリズムの理念がだんだんと分かっていただけるはずだ。
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# by ydando | 2005-01-19 23:22 | ジャーナリズム