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◆新ブログに移行します◆Blog vs. Media 時評blog.dandoweb.comへどうぞ ――――――――――― ネットジャーナリズム活性化のために3/9=圧縮音楽の改善2/11=失敗国家と紙消費2/9=「ウェブ通」リンク集
by ydando
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輝きが無いソニー改革人事の違和感 [ブログ時評14]
 初の外国人会長CEO(最高経営責任者)と下馬評になかった地味な技術畑社長で、ソニーの顔が一新されることになった。本業のエレクトロニクス分野で魅力的な商品が出なくなって久しく、ゲーム機や映画ソフトの儲けで食いつないでいる事情は広く知られている。ソニーの製品は古くから広く家庭に浸透している。私の家の皮切りならアンプ部が真空管だったテープレコーダー。それだけに一般の関心が高く、本当にこの危機を乗り切れる経営陣か、株価は上がってもネット上では危惧する声の方が多いと感じた。

 「ソニーの原点はモノづくりだと思います」とする「ソニー経営陣交替について考える1」(大いなる夢)は少し前に出たハワード・ストリンガー次期会長のインタビューを読んだ感想として、こう指摘する。「モノづくりを重視せずに、クールなエンターテイメント企業としてのイメージ、ブランドを維持しようとするのでは、ますますソニーとしての強みを失っていくことになるでしょう」。そして、オンリーワンのモノづくりで息を吹き返したアップル社と対比している。

 「ものづくりこそ本筋」というのが米国メディアでの反響でもあるらしい。「Made in Japan」(Studying Journalism in the Bay Area)はNew York Timesビジネス面などの紙面を埋めていると伝え、Financial Times紙の社説の結び「rediscover its inventive roots」を紹介している。

 そんな中で好意的な評価をしているのが「PSPのAV機能を活用する!」の「ストリンガー氏の下で進む米国法人主導のソニー復活戦略」。「『ハードに魅力がないから売れていない』のではない。むしろ逆で、『ハードと連携すべきソフトやサービスが貧弱』なことがハード自体の魅力を大きく損ねている」。アップルのiPodに負けたのも独自の音楽圧縮再生規格にこだわって、市場にそっぽを向かれたからだ。「ソニーなりに、ハードとソフトとサービスの善循環モデル=コンバージェンス戦略を作っていかなければならない」「ストリンガー氏が米国にいることはソニーにとって意味がある。なぜなら、ソニーの社運がかかったコンバージェンス戦略はもっぱら米国法人が進めているからである」

 私は新社長になる中鉢良治氏の発言「今のソニーの商品をみると消費者の視線が少し欠けている。もう一度消費者が何を求めているのか、原点にかえらなければならない」の言葉が気になってならない。妙に当たり前すぎるのだ。歴代のソニー社長が言って、ふさわしい言葉だろうか。文字通り世界を相手にした創業者・盛田昭夫氏のことを思い出さずにはいられない。

 「ソニーねえ。。。」(プログレッシブロックな非線形衝動)はこうみる。「ソニーが確実に失ったのは『文化』に他ならない。簡単に言えば出井CEOは、盛田氏ほど音楽や映画・映像が好きではないし、クリエイティブなことや人間がワクワクする気持ちを知らない」。声楽家出身だった前の大賀典雄社長だって、ワクワクする商品づくり志向の方だったと記憶する。

 ネットを歩いているうちに以前読んだタイム誌特集「20世紀で最も影響力のあったアジア人」の記述が脳裏をよぎった。「Letter from Abroad」の「盛田昭夫」で翻訳が公開されている。カリフォルニア大のジョン・ネイサン氏が書いている逸話はこう。「盛田の放っていた輝きそのものは、彼の残したソニーへの遺産のひとつとして今も生き続けている」。大賀氏に出井氏を抜擢した理由を聞くと「ソニーを率いる者には、輝きがなければならない」と語ったという。出井伸之会長も95年に登場してしばらくは輝いていた。ストリンガー・中鉢体制にそれが全く感じられないことが、今回のソニー改革で最大の違和感だ。



◎3/25に、今回の英訳版を専門家に頼んで作ってもらい、親サイトにある英語サイトで公開しました。"Misgivings about the dull personnel revolution at Sony "です。
# by ydando | 2005-03-13 14:09 | 政治・経済
ネット右翼的な思考回路は限界~若隠居さんへのお答え
 結論の部分からご返事しましょう。「ブログ時評におけるネット右翼論に疑問を呈する 」の最後にあるように「スポーツナショナリズム・ネット右翼なんてレッテル張り」をしているのではありません。日本という共同体の一員として、他の共同体と向き合い、日本国家を意識する場面で生まれている思考の回路では、現在の日本社会が直面している本当の課題には到達し得ないのです。右翼的言辞について「素直な心でやっていることを、そのままに受け止め」「建設的な議論をする」のが、財政構造改革、教育問題、年金問題などを考える糸口になるのですか。

 ネットの議論は現状でもマスメディアの水準を凌駕していると豪語する方が多数います。本当でしょうか。そういう質の議論があることは事実ですが、広く一般市民が容易に接することが出来なければ存在しないのと同じです。「十個は秀でたものが混じっています」と千個の文書を渡されて読む人がいるでしょうか。私が97年から続けている「インターネットで読み解く!」は、ネット上の知のピークを広く利用可能にする仕事だとも言えます。ちょうどgooやinfoseekが立ち上がった瞬間から検索エンジンを利用してきました。リンクの相互分析を使い、この数年で熟成してきた検索結果が、ブログの隆盛で雑音だらけになりつつあります。

 すべてが「ネット右翼」と目される議論のせいではありませんが、金太郎飴を切ったような議論をいつまでも続けるのは止めにして、日本社会が直面している現実と関わる議論に移りましょう――というのが私が最も言いたかったことです。社会のありようとこれほど乖離しているのは相当に変です。ネット検索を使う市民が増えている現在、その成果は伝わるはずです。マスメディアに影響するようには直ぐにはならないでしょうが、そのポテンシャルは十分あります。メディアは本当に手詰まり状況なのです。

 最後に、小倉さんの呼びかけに、どなたか応えられたとか。社会学系の研究者を脅してブログを閉鎖に追い込んだ例を知っているので、右翼という自覚を持つ人も混じっているのでしょう。「自分は真ん中」という意識が「ネット右翼」を支配していることが私の論点ですから、どなたか一人の応募に影響されるものではありません。
# by ydando | 2005-03-08 00:09 | ネット
公論の場を貧しくするネット右翼の病理 [ブログ時評13]
 ブログの世界を中心に時事問題への議論を収集して3ヶ月余り、ネットに右翼的言辞が氾濫しているのに、個別政策的な課題では右からの発言がほとんど無いことに驚いている。NHK・朝日問題に関連して、在米研究者の卵による「むなぐるま」は「日本ではリベラルブロガーのハブはないのだろうか」と問いかけて話題になった。私の立場からは保守系のハブサイトこそ教えて欲しい。「小さな目で見る大きな世界」の「リベラルの不在、保守の不在」が「何を重視するかということで違ってくるのだろうけれども、保守の人たちはずいぶん取り上げていない問題があるよなあと感じている」と指摘する思いに近い。

 「ネット右翼」と目される集団が押しかけ、多数のコメントの山を残した「小倉秀夫の『IT法のTop Front』」では、ネット右翼というものがあるのなら自分こそと名乗ってみて、との趣旨の呼びかけがされたものの、反応は無かったようだ。ネット上で主に対中国、対韓国・北朝鮮、対マスメディア関連で右翼的言辞を並べているブロガーの立場には共通点がある。「自分は真ん中。右に見えるのは、あなたが左にいるからでしょう」といった感覚。そして、自分のブログを持たず、コメント欄だけに書き散らしているグループと大集団を作って居心地の良さに納得している。

 国を誇る、真っ直ぐな思いを貫いている――大集団の光景はスポーツナショナリズムに極めて近い。サッカー・ワールドカップ予選でテレビ中継が始まった瞬間に、ニッポン・ガンバレに切り替わってしまう心情である。どちらも、ナショナリズムが生まれるメカニズムは共通している。日本という共同体の一員として、他の共同体と向き合い、日本国家を意識する場面だ。「マスメディアによる自虐的報道」を非難するスタンスも同じである。このメカニズムで生まれた右翼的志向である限り、目を転じて共同体内部の個別の問題に対処する基盤を持たない。外に向かっては一致していても、内部利害はばらばらだ。

 自民党政権が磐石だった時代、最初から政権を取るつもりが無い野党に代わってマスメディアが政権批判の柱だった。今、政治家、官僚を含めて国家が生き方モデルを見失い、攻め手のマスメディアも整合性があるモデルを提示できない。こんな時代だからこそネット上に公論の場を造りだす意味が大きいと考えているが、ネット右翼では「右」を代表することは出来ないと早く気付くべきだ。惰性に任せては先行きが見えない社会を変えるために、大手術が必要と右の立場で考えたら、相当に骨太の枠組みを考え出さねばならない。左の立場なら弱者のために抵抗するくらいでも形は出来る。現政治状況に当てはめると、中曽根元首相なら、不肖の後継者・小泉首相の課題ごと丸投げ路線に忸怩たる思いをしているはずである。


 :小泉改革については最初から否定的に扱ってきた訳ではありません。特集「小泉構造改革を考える」で考えてきた流れが一覧できます。
# by ydando | 2005-03-07 00:05 | ネット
たばこ事情に見る中国も大変
 世界の喫煙人口11億人のうち3億2000万人は中国人とされる中国のたばこ事情を、中国情報局の「たばこ大国中国、問題知りつつ税収1割頼る現実」で知った。発効した「たばこ規制枠組み条約」の関連でヒットした記事なのだが、中国は調印しても、まだ批准していない。

 中国のたばこは、軽い味が主流になった世界では例外的にヘビーで、輸出できないと言われる。その「たばこ税」で国家税収の1割前後も稼いでいるという。昔の日本のように専売制で、たばこ農家も「重い」葉を栽培していて方向転換は容易でない。当然、たばこ規制には異論が出る。ちょうどJMMで配信された『大陸の風-現地メディアに見る中国社会』第40回「たばこのけむり」には「たばこ業界は我が国国民経済の支柱産業の一つである。昨年の税込利益は250億米ドルに達し、前年比3分の1近い伸びを示した」(毎日経済新聞)とある。

 関連記事リンクをたどると、「中国:タバコ消費大国、未成年者の喫煙が深刻」に行き着く。「中国衛生部が実施した調査では、大学、高等学校、中学校の男子学生ならびに生徒の喫煙率は、順に46%、45%、34%に達している」そうだ。日本の「この1ヶ月にたばこを吸ったことがある」と答えた者の割合とほぼ並んでいる感じだ。家庭がかなり甘いと伝えている。

 本国では、たばこ規制枠組み条約で追われる立場の海外たばこメーカーは、中国に軽い味のたばこを売り込む構えをしている。日本だって私の連載第135回「たばこ依存脱せぬ日本人を考える」で書いたように決して誉められたものではないのだが、経済発展の中でたばこが広まっている中国は国民の健康との兼ねあいで一段と難しい立場にあるようだ。
# by ydando | 2005-03-04 00:59 | 世界
被害大き過ぎ実感できぬ首都直下地震 [ブログ時評12]
 経済損失112兆円、避難者700万人――政府・中央防災会議の「首都直下地震対策専門調査会」がまとめた被害想定の数字は、あまりに大き過ぎる。東京都などが単独でまとめていた想定を、関係都県の全体像で見たらこれほど大変だと分かっても、何から手を付けてよいのか、考えあぐねる規模である。ネット上の反応も実感を伴っていない感じがする。

 例えば、発表された資料「被害想定結果について」の中にある避難者の数だけ最近の大地震と比較してみても、阪神大震災で最大31万人、新潟中部地震で10万人のオーダーだった。いずれも被災後数日は、この人たちにわずかな食事しか届けられず、どれほど苦しんだことか。発生翌日に出る避難者700万人の内、東京の200万人をトップに計460万人が避難所生活を送る想定になっている。都が備蓄している食料はアルファ米119万食、カップ麺100万食とかだそうだ。最大で650万人出ると考えられる、職場や学校からの帰宅困難者も含めて、食事を他人に頼るのは最初は無理だと諦め、何らかの緊急食をいつも自分の身近に置くしかなかろう。

 『ブログで ひとこと 言わせてちょ~だい』の「●東京に地震が起きたら・・・」は「200万人以上が1ヶ月たっても避難所暮らし!? 地震の直接の被害よりも、その後の被害、いわゆる『震災』がすごいんだね」と指摘している。でも、ちょっと踏み込んで考えてみて欲しい。200万人以上に1カ月以上も食事を供給する――誰が、どうやってするのか。阪神大震災の30万人には、隣の日本第二の都市・大阪などが無傷で支援できた。関東平野の中心部が広範囲に被災して、水やガス、電気などライフラインが復旧しない時点で、200万人以上に周辺都市の支援が届くのか。たった10万人の支援に無傷の県都・新潟が四苦八苦したのを、この間、目にしたばかりではないのか。お忘れだろうか。

 最大で1万3000人という死者数推定に疑問を投げる声もある。「エントロピーは増大し続ける・・・」の「東京の下で3つのプレートが・・・」は「この死者の数ですが・・・、火災旋風の発生は計算に入ってないのじゃないでしょうか」「同時多発的に火災が発生した場合に、火災で発生した大量の熱気が上昇し、冷気と混じり合って炎の竜巻を発生させる現象です」と死者がもっと増えると考えている。阪神大震災の時は幸いにも微風状態であり、さらにラッキーなことに未明で交通量が非常に少なかった。地震時に道路を車が埋めていて、車両火災で延焼が広がるようなら大変である。道路については今回の想定は地震による運転操作のミスで死者が出るところで止まっている。

 新幹線の脱線を想定しながら、死者はその車両だけと考え、追突のことは考えないなどの矛盾はマスコミ報道にも出ていた。細いベルト帯が被災した阪神大震災に比べて、首都直下地震は面として被害が広がるのに犠牲者数が2倍にしかならないというのがそもそもおかしい。経済損失だけは国家予算の1.4倍と巨額なのに、人的被害はあまり刺激的にしたくない政治的配慮もありそうだ。

 「blog.CreCom.Org」の「東京直下地震、被害は最悪112兆円」のように「『完璧な地震の備え』とまではいかないまでも『心構え』と『準備』だけはしておきたいものですね」と市民が反応してくれるのが狙いだろう。しかし、「風信子石」の「結局何が言いたいのかわからない<首都直下地震被害想定>」との声も出ていることを付け加えておこう。。

 このような想定が出るのであれば「近年、都心の分譲マンションが人気で住み替えられる方も多いようですが、その方々は居住地リスクをどの程度まで考慮されての移住だったのでしょうか?」と訴えているのが「田舎暮らしの学校」の「田舎の存在価値とは」である。「暮らし・生活・生命を不測の事態から守るために、生活の拠点を分散させて確保しておく。華僑の方にとってはあたりまえの考え方のようですが、島国に育ち国際交流経験の少ない日本人にはあまり浸透していない考え方でしょう」とリスク分散を暮らしの根本に取り入れるべきだとする。

 首都移転論もいつの間にか忘れられ、便利だというだけで東京集中が進む昨今である。460万人を避難所に収容して日々3度の食事を供給するなど、極度に非現実的であることに気付けば、食料備蓄を増やすなど小手先の対策だけに目を向けて良い訳が無かろう。
# by ydando | 2005-02-27 19:45 | 資源・環境・災害