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by ydando
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予測不能なイラクの明日
 もう何ヶ月も前からイラク国民議会選挙の日、1月30日がどうなるのか、注視してきたのですが、予想された混乱に加えて、先行きが予測不能と思わせる情報が出ています。この選挙は将来に大きな禍根を残しそうです。

 まず、スンニ派住民が投票するのはやはり無理。29日付の「新イラク取材日記」「出発前だが・・・バグダッドからのメール」に、イラクの友人から送られた「誰も家の外を出歩けない」生々しい状況が出ています。「戦闘は一日中続いていて、夜も寝られない。私達は床で寝ることにしたよ。爆風で、窓やドアのガラスの破片が飛んできて怪我をしたり死んだりしたくないから」。投票所からの報道では見えてこない現実です。

 その一方で、各地にいるスンニ派の武装抵抗勢力が連合して政治的な要求が出来るまでになってきているのも事実です。選挙後には、スンニ派多数が参加できなかった選挙の正当性を激しく問う行動に出ると考えるべきでしょう。

 もうひとつの火種、北部にいるクルド人勢力は「自治か独立か、イラク・クルド人自治区で住民投票」を議会選の投票箱の横に、住民投票箱を置いて実施するそうです。住民団体が音頭を取る非公式投票ながら、クルド住民の意思が独立に向かうであろうことは容易に想像できます。

 スンニ派が異議を申し立て、クルド人勢力も独立に走るとすれば、投票実施に熱心な最大勢力のシーア派との間で内戦にもなりかねないでしょう。シーア派が主導しそうな新政府と言えば、長期の駐留が必要と言い出している米軍には撤退する気持ちはさらさら無いようですから、現在の暫定政府が選挙後は傀儡政権と呼ばれる恐れ大です。


(※今週は所用があって時間が取れなかったので、日曜日更新の「ブログ時評シリーズ」はお休みです。)
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by ydando | 2005-01-30 20:10 | 世界
ニュースを書く感覚は発見の感覚
 「ネットは新聞を殺すのかblog」の湯川さんからトラックバック「団藤さん、ブログは今までの媒体と違うのでは」があり、良い機会なので先日の「ブログから生まれるジャーナリズムは」を補足しておきます。「ブロガーの皆さんの多くは『これはニュースになる』との感触をまだ知らない」という部分について、湯川さんは現在のマスメディアのニュース感覚だっておかしいなどの趣旨で分厚い議論をされているのですが、私はそんな難しいことを言っているのではありません。文章論としてニュースを書く感覚が足りないのです。

 ストレートな新データを書くのではなく、マスコミが伝えた事実などについて評論している場面では、多くのブログは平面的な主張をしているだけに見えます。書き始めから書き終わりまで、ほとんど議論が発展していないことも多々です。私がブログ時評シリーズで引用しているブログは、書くことによって筆者も何かを見つけるか、新しいステップに入るかしているケースが大半です。見つけることがニュース性を与えているとも言えます。

 最近の「青色LED和解で理系冷遇は変わるか [ブログ時評07]」を例に取れば、「BENLI」の「ギャンブルしなかった中村さん」は米国流の高収入システムを書き、本当はそれに乗っていないのに「理系人は米国に来なさい」と放言する中村教授の言行不一致をきれいに描き出しています。一方、「junhara's blog」の「発明貢献度なぜ5%?」は5%と書籍の印税10%の関係に気づいたところは良いのですが、リスクを取らないから5%になる点などを論じ損ねています。発見の歯車が半分しか回らなかった感じでしょうか。私が補っている部分まで自分で気づいていれば、新しい地平が見えて面白い論に発展したでしょう。

 新データを書かなくてもニュースになる文章法を挙げましょう。音楽評論家の吉田秀和さんが「私の文章修業」という本で、大相撲の勝負が決まる瞬間を描ききることで文章を磨いたエピソードを書かれていました。力士の一連の動きの中で、勝敗を決めたのはどの瞬間だった見極めるのです。時事的なニュースであっても、決定的なポイントは何か考える手法として応用可能かと思います。

 私が引用してまとめ上げているブログ時評シリーズは、紙のメディアでも通用するニュース性があると思っていますが、その基本は書くことで何かを発見する営為にあるはずです。ネットを回って何かが書けると感じた時には、必ず眼前が開けて見えていなかったことが見えたと思えます。私のジャーナリズム観「隠されがちな事実を伝え、見えなかった意味を言う」の後半部の感覚です。
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by ydando | 2005-01-24 19:44 | ジャーナリズム
もう気付こう、文科省なんか不要だ [ブログ時評08]
 学力低下が言われる中、02年度に導入されたばかりの「総合的な学習」見直しを中山文部科学相が表明したことを受け、2月の中央教育審議会で具体的な検討が始まりそうだ。文科省が十数年掲げてきた「ゆとり教育」志向の看板が音を立てて崩れていく。

 「おぃおぃ・・・今頃になって何をあわててるんだよ! 2002年から今の学習指導要綱に基づいて、せっかくやり始めてまだ2年やん? 研究に研究を重ね、一般庶民の声に逆らって、頑張って決めたことちゃうの?」。「極私的映画論+α」の「『総合学習』の見直し」にある声が最大公約数的な、庶民の反応だろう。結果として見直し賛成でも、まず、こう言いたくなってしまう。

 「タムリンの日記」の「文科省方向転換」は「失敗の責任は誰もとらず、文科大臣を変えることによって、その気まぐれ発言により方向転換を図ろうとする、全く無責任な形で教育改革が進んでいます。あれほど、テストの点だけが学力ではない、学力に対する考え方を変えよと言っていた文科省が、他国とのテストの点での比較で、学力低下をマスコミに批判されただけで・・・。しわ寄せはすべて、現場の教員に来るわけです。こんなシステムではよい教育ができるはずがありません」と怒る。

 確かにこの方向転換は唐突である。拉致問題で首相官邸の対北朝鮮最強硬派だった中山参与の夫君が中山文科相。このご夫婦、思い込んだら梃子でも動かぬ点で似ていらっしゃる。小泉首相が組閣で中山文科相を選んだ時点で、レールは敷かれたのかも知れない。

 昨年末の文科省事務次官人事で文系の官僚ではなく技官出身の結城章夫氏が内定したことも盛り込みながら、それを少し穿(うが)って書いているのが「電脳くおりあ」の「文部科学省が変わる?」である。例の「三位一体改革」によって義務教育国庫負担金制度が廃止寸前まで行き、文科省の存在理由が揺らぎ始めている。ここで過去の束縛がない新文科首脳ラインで学力低下問題を表面化させ、社会的な危機感を煽り、文科省の存在意義を訴える手に出ている可能性がある。「私は、どんな意図があろうと、本当に本気になってかかってくれればそれでいいと思う。危機感のない中央省庁では、なくてもいいことになって当然だからだ。問題は、改革の内実だと思う」「大事なことはこれからだ。文科省が何をしようとしているのか、しっかりと見届ける必要がある」

 文科省を批判をされる方でも、その存在がまず前提になっている。それを突き抜けているブログは見つからなかった。私ならこう言いたい。「もう気付きましょう。文科省なんか要らないんですよ」と。

 今度の見直しで学校現場の混乱はさらに深まろう。総合的な学習に手を焼いていた先生は助かる。しかし、総合的な学習が得意で成果を上げていた先生まで、教科学習重視に引き戻されてしまう。欧米先進国に追いつこうとしていた時代までは、中央統制型の教育行政に意義はあったが、今となっては教育本来の姿、地方分権で現場の実情に合ったやり方に委ねるべきだ。学習指導要領なんかも要らない。教科書も自由に作り、教え方も自由。教科学習に強い先生はそこから入ればよいし、総合的な学習を駆使できる先生は生徒の「目覚まし」をして教科学習の必要性を判らせればよい。

 ただし、こうしたことが可能になるには、その地域社会が自分達の子どもは自分達で育てると覚悟を決める必要がある。お金も人手も掛けねばならない。現在、多くの先生はパソコンを自在には扱えない。今の時代に総合的な学習をするのに大きなハンディキャップになっている。それなら地域社会がボランティアを募ってもパソコン支援役を学校に送り込む。定年退職した方たちにも語り部として、生きた教材として学校に来てもらう。地域社会全体で学校を包み込むのが前提だ。

 昨年書いた「学力・読解力低下で知る危うい国家戦略 [ブログ時評03]」で描いたように学校、特に公立校の疲弊ぶりは甚だしい。きちんとした教科学習を捨てて、甘やかしや思いつきの学校運営に走ってきた。子どもや親たちの信頼も落ちている。成績の良い子は私学に流れた。ここで文科省通達で「教科学習に舵を切れ」と指令して、大きく実質が変わるとは思えない。必要なのは指令ではなく、現場への厚い、そして熱い手助けだと考える。

 こんな意見もある。若手の無党派神戸市議が「教育方針に正解はあるか?」で「戦略的に考えるならば、20年後の日本が必要とする人材ビジョンをきちんと描き、そういう人材を育てるために教育方針を定めるべきなのでしょうが、『20年後にどんな人材が必要とされるか?』など予測できない・・・というのが私の結論です」と述べ、「多様な教育機関が多様な教育を行えば、結果的に多様な特長を持った人材が育ち、時代の変化に合わせて誰かが活躍するはずです」と語っている。

 もう一度繰り返そう。中央統制教育の時代はもう終わったのだ。歴然たる失敗にまた失敗を重ねるのが目に見えている「小手先の方向転換」ではなく、教育の主体を地方の手に取り戻し、自分達の責任で子ども達を育てるしかない。子ども達のモラルの低下や生き方を見失っている問題にも、地域社会全体が取り組むしか解決法は無いのだから。
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by ydando | 2005-01-23 02:03 | 社会・教育
ブログから生まれるジャーナリズムは
 2ヶ月、多くのブログを読みほぐす作業をした感想をまとめれば、ストレートニュースの要素はほぼインド洋大津波の被災体験記だけであり、そのほかで紹介するに値したのは、ものの見方、切り方の斬新さだった。ニートや学力低下などを巡る体験談的な話も、どちらかと言えば見方、切り方に近い。ジャーナリズムの理念をスローガン風に唱えている「隠されがちな事実を伝え、見えなかった意味を言う」に照らせば、前者は少なく、後者が大半だった。しかも、この中身はいずれもマスメディアが流している、多くの「細切れニュース」のスタイルには納まりにくい性質があると思う。おまけに、ブロガーの皆さんの多くは「これはニュースになる」との感触をまだ知らない。

 ライブドアがブロガーの中から「パブリック・ジャーナリスト」を募集して独自ニュースを流そうと準備しているのは、かなり広く知られたことだ。このブログにもそのジャーナリスト研修講座に参加した人から、率直なレポート「ライブドアのパブリックジャーナリスト研修の感想」のトラックバックが来た。私はブログ時評を始める前から、ブログの世界が現状のままであるなら、その実現性に極めて懐疑的な立場に立っている。

 一番の問題は冒頭に書いた通りだ。私が読んでニュース性があるものをうまく書くには、ライブドア・ニュースという形式が有効かどうか。従って、記事の書き方トレーニングも、従来型記事の典型的スタイル「逆三角形型」を学ぶだけで良いとは思えない。指導役のプロの記者が必ずしもオールマイティでないと認識しないといけない。実はマスメディアの供給しているニュースも、「脱・細切れ」を果たし、ストーリーテラーの部分がもっと大きくならねばと考えている。

 次に、本名で記事を書くことに慣れていない「パブリック・ジャーナリスト」に何を期待するのか。身辺ニュースとは言え、「これは問題だ」というタイプは取り上げにくいのではないか。地方紙と全国紙の役割を書けば理解しやすかろう。地方紙の記者はずっとその地域社会に住み続ける。地元に深く密着している分、深いところまで知っていて書きにくい面がある。全国紙の記者は原則として2、3年で転勤していく。知り得たことは浅いかも知れないが、全国レベルの常識に照らせばローカルルールでなされている事柄のおかしさ、不当さに気付いて、しがらみ抜きに痛烈な指摘が出来る。(どんどん転勤していくので、例えば阪神大震災の被災者らからは「いつも最初から語らねばならない」と不評なのもよく知っているが・・・)

 フリーランスのライターが記事を寄せているサイトには、既に「JANJAN」がある。私も時にのぞくが、常時、見に行かねばと思うほどチャーミングではない。当然のことだろうが、ぶれも大きいと感じる。ライブドアさんには、あれを上回るようになる確かな仕掛けがあるのだろうか。記事へのコメント欄で圧力を感じるようなことが起きないシステム的な保護策もなければ、とても本名は使えないだろうし・・・(JANJANは会員制)。他人事ながら、うまくいく想像をする方が難しい。

 しかし、ブログの世界がいつまでも同じとは思っていない。ブログ、メルマガから紙のメディアまで通して読む人に訴えられるものが何か――見てもらっていく内に、私が言っているジャーナリズムの理念がだんだんと分かっていただけるはずだ。
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by ydando | 2005-01-19 23:22 | ジャーナリズム
青色LED和解で理系冷遇は変わるか [ブログ時評07]
 青色発光ダイオード(LED)開発者、中村修二・米カリフォルニア大サンタバーバラ校教授は、勤務していた日亜化学工業(徳島)との間で発明対価を8億4千万円として和解した。一審の東京地裁で200億円の巨額判決を得たのに、控訴審・東京高裁の裁判官は和解を強く勧めて、大幅減額に落ち着いた。和解後に開いた記者会見で中村教授が日本社会への失望を表明し「理系を目指す人には是非、実力が収入に反映される米国に来るよう勧めたい」と言い放った。中村教授のキャラクターへの好悪も重なって、ネット上で不満・納得・賛否の意見が交錯している。

 一審判決当時から多くのマスメディアの報道が的確でなかったことが、事態激変の理解を難しくしている。こうした民事の訴訟では裁判官は原告、被告双方からの主張をよく聞いて、どちらかに乗るしかないのだ。もし「本当に正しいのはこうだ」と内心思っていても、双方とも主張してくれなければ判決に使えない。私の連載第143回「巨額な発明対価判決が映すもの」で描いたように、日亜化学側は監査法人の鑑定で青色LED開発により利益を上げたどころか14億円以上の損失を出していると主張した。そっと「こうも考えられる」と別に穏当な計算も出していれば良かったのに、無茶な主張で突っ走った。裁判官はやむなく中村教授側の主張をなるべくマイルドにして採用したと考えられる。

 敗れた日亜化学側は控訴審では当然、普通の常識的な理解が得られる主張に切り替えたのに、中村教授側は一審が最高600億円まで認定可能とした点に飛びついて無理な主張をしたようだ。裁判官は判決を書くなら日亜化学側に立つしかなくなるが、それでは億を切るような少額になるので裁判の対象でなかった中村教授の発明全部を一括対象にし、今後、別の訴訟は起こせなくなる利点で日亜側を説得、金額にも色を付けたと考えられる。

 野球に例えれば、敵の失策で先制点を挙げたのに終盤、自らの大暴投で同点に追いつかれた――この流れを中村教授も十分、理解できていないから記者会見での不満爆発があったと思う。また、産業界などからのコメントでも裁判不信の声が出ている。一審判決時に続いて知財関係方面から素人のようなコメントが出るのでは、一般ブロガーなら理解しにくくて当然かもしれない。

 さて8億円余。普通のサラリーマンには十分に巨額である。それでも「志す理系人は米国に来い」という。果たして、そうか。「BENLI」の「ギャンブルしなかった中村さん」は欧米企業内の報奨制度を取り上げながら、中村教授の呼びかけに錯覚があるのではないかと説く。「ドイツでもフランスでも、中村氏は6億円を超える補償金をもらうことは難しかったのではないかという気がします」とし、米国なら「ベンチャーキャピタルから出資を募って自分で会社を興し、そこで発明を完成させようと考える人も多そうだし、すぐれた発明を行ったという実績をひっさげて他社に高給で引き抜かれるというのもありなので、優秀な研究者・技術者が金銭的に豊かになる方法はいくらでもある」。それに対して中村教授は米国に行きながら米国流のリスクを負う生き方はしていないのだとする。

 米国社会の仕組みがそんなに良いか、考えている「13Hz!」の「青色LED訴訟、中村教授が『理系を目指す人は、米国に来るよう勧めたい』」はこう指摘する。日本では開発が失敗した際の損失などは会社が背負う。「一般的には雇用までもが保障され、研究開発に失敗したからといって研究者をクビにしたりはしない」また「本来、上級の研究者ならば、その研究がどのように『会社に利益をもたらすか』をプレゼンテーションし、まず開発の許可を得て、その上で予算取りを行わなければならない」「だが、日本ではこのプレゼンテーションは極めて簡単にすまされ、研究者が研究に打ち込めるようにするのが普通だ」

 これに対して年俸制の米国式は失敗すれば失職の危険を負い、経営者を説得して予算を取らねばならない。「欧米スタイルの雇用には賛成だ。でも、その一方で『金は程々でいい。ただ、研究に没頭したい』という研究者達の幸福を奪う結果になることも、知っているつもりだ」

 こうしたリスクから逃れている実情から、実は理系職場の中でも、民間企業の研究職は相対的に低い立場にあると知れる資料がある。第143回「巨額な発明対価判決が映すもの」でも取り上げた上智大経済学部出島研究室の「データを探しに」である。人事院「民間給与の実態-平成8年職種別民間給与実態調査の結果」から月額ベースで理系と文系の幹部職給与を比較している。

   平均給与月額(企業規模500人以上。ボーナスは含まず)
          40-44歳     48-52歳    56歳以上  
 大学教授    649,524円    720,712円   763,245円
 事務部長    633,853円    771,350円   793,534円
 支店長     713,036円    857,529円   807,680円
 研究部長    561,939円    665,959円   693,193円
 技術部課長   573,021円    695,547円   738,847円
 工場長       ---     683,219円   805,471円
 医科長    1,033,050円   1,021,352円   956,562円
 医師      820,516円    916,848円   840,547円


 ボーナスを含めるとこの差はかなり拡大すると考えられる。最近まで金融業界や商社などでは高額な賞与が出ていて、製造業のそれとは比較にならなかった。生涯賃金で理系と文系には5000万円の差があると言われる理系冷遇の、さらに下層に研究者は位置していたのだ。

 イチローやマツイの年俸との比較で「8億円でも少ない」とする意見はロマンの問題だから、もっと現実的になろう。今度の和解で「会社が上げた利益の5%までが発明者の貢献度である」とする流れが出来ようとしている。「junhara's blog」の「発明貢献度なぜ5%?」は「なぜ5%なのか、どこにも説明がない。出版の場合、印税は平均10%である。新聞社にいる著者の場合、書き下ろしで10%、企業内の機能をどれくらい利用したかしないか、で印税の率は変わる。記事として掲載された文章をどの程度加工しているか、社の取材機能をどの程度利用したかによって、変わる。ケースバイケースで決まるがルールがないわけではない」と良い点に目を付けている。

 新聞社の仕事で書いた記事をそのまま本にした場合、印税の半分は会社が持っていくのが一般的だろう。会社がリスク丸抱えで仕事をした場合には執筆者利益は5%という実情を、裁判所も知っている可能性が高い。民事訴訟の判決では裁判官は原告、被告どちらかに乗るしかないが、和解勧告では「このあたりが妥当でしょう」と示せるのだ。そのように考えると、青色LED和解は会社によっては数万円の報奨金しか出ないような極端な冷遇から、民間企業の研究者を文系の仕事と同じ土俵に引っ張り上げたとも見える。ただ、5%を掛けるべき会社の上げた利益額については算定方法にコンセンサスは出来ていない。
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by ydando | 2005-01-16 15:44 | 科学技術
大津波の援助を届けることの難しさ
 インド洋大津波に対する各国の資金援助の表明は順調だが、CNNニュース1/7で国連は、1年前のイランの古都バム地震で「各国が約束した計10億ドルのうち、これまでに約1750万ドルしか払い込まれていない」と額面通りには受け取れないとの見方を示している。約束不履行のケースは過去の災害に何度もあるという。

 日本政府は早期に払い込むとの姿勢を鮮明にし、大津波に対する無償資金援助5億ドルの半分は2国間で供与する方針だ。そのうちタイに贈ろうとした20億円を、タイ政府は辞退してきた。この分はインドネシアへの130億円、モルディブへの16億円に積み増されるという。自立して取り組もうとするタイ政府の心意気は買いたい。同時に少々憂鬱になった。この巨額のお金が全て有効に使われることはまずあり得ない。この地域のODAは中間搾取が酷いと言われ続け、特にインドネシアの腐敗体質は有名だ。

 JMM[JapanMailMedia]のNo.304「カオラックのひとたち」は津波にあったアメリカンスクールの先生からの体験談メールを、春具さんが翻訳して読ませてくれる。悲惨な体験の後、ホテルに戻っても電気も明かりもない状況で、身内が行方不明になっているタイ人の若い女性イドさんが、うろうろしている50人ほどの旅行者にタイカレーの炊き出しをしてくれたそうだ。この話がBBCなどで流れると、隣人や見知らぬ人からも寄付金が500ユーロ単位(日本円なら約7万円)で「イドさんに渡して」と次々に届くようになったという。家族会議を開いて300ユーロを500ユーロに増額した家もあった。

 手から手への支援が出来ないならどこが良いか。今回の国連支援で大きなニュースは、緒方貞子さんが前のトップだった国連難民高等弁務官事務所(UNHCR)が、被災者が膨大なことから難民が対象でないにもかかわらず動き出したことだろう。緊急支援アピールにも具体的にどの国でどんな内容かが書かれており、百万人を超える人たちに仮設住居や救援物資を、なるべく公平に届けるには実績を考えても一番かと思っている。
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by ydando | 2005-01-10 19:03 | 世界
大津波で問うNHK国際TV放送の失態 [ブログ時評06]
 インド洋大津波の発生から2週間になる。地震はマグニチュード9と大きかったが、かなり沖で発生したために陸地部の震度は大きくないことが判明した。死者・行方不明の合計18万人に迫る被害のほとんどは津波がもたらした。ブログ上での情報を整理しているうちに、とても重大な視点が見落とされていることに気付いた。アジア・アフリカで広く見られるNHKの国際テレビ放送が東京発のニュースで「スマトラ沖でM8.3の地震がありました。かなりの被害があった模様です」と流しながら「日本での津波の影響はありません」としかコメントしなかったのである。

 インド洋の島国モルディブに、半年遅れの新婚旅行に来ていた「リーマン成金計画☆生きてるだけで丸儲け☆」の作者は、朝6時に大きな揺れを感じて目を覚ます。7時過ぎにテレビのチャンネルをNHKに回して上述のニュースを聞いて「ガクッ。『知りたいのはモルディブへの影響に決まっとるやろ!』とTVに虚しいツッコミを浴びせ、朝食に向かう」

 夫婦のコテージに濁流が押し寄せてきたのは2時間後の午前9時半ごろ。岸までたどり着こうと流木につかまったりしながら二人で必死に泳ぐ。作者が水上バーの柱にしがみついて振り返ると、妻が濁流で沖に引き戻されるのが見えた。その時、バーのスタッフ二人が濁流に洗われている桟橋を危険を冒して駆け、妻の救助に向かってくれた。作者も3番目に走った。桟橋の先につかまった妻はスタッフが引き上げてくれた。

 スタッフの行動はいくら感謝してもしきれない良い話だが、翻って商業マスメディアの中でも新聞に身を置く者として、NHKの国際テレビ放送は視聴者との契約関係を忘れていると糾弾したい。新聞業界の古い言葉に「読者への忠誠心」がある。色んな意味を含むものの、ここでは地域性にしぼろう。新聞の場合、印刷される時間帯により配達地域が決まっている。その時間帯の新聞は、当該地域社会での価値観・有用性を盛り込んでつくられる。全国紙の視点も大事ながら、当該地域に配慮した記事差し替えなど日常茶飯事で行われる。そういう暗黙の契約で購読料をいただいている。

 民放は視聴者と契約関係にないが、新聞社が出した資本が大きいためもあり新聞に準じた関係をつくっている。NHKは受信料を取っている以上、明らかに視聴者と契約関係にある。通信衛星を使っている国際テレビ放送「NHKワールド・プレミアム」なら毎月テレビ1台3000円の料金を取っている。ホテルでの契約額は交渉次第で変わるようだが、料金を取って見せている事実は同じだ。M8級の海洋地震が起きているのだから、東大地震研の先生を探せば必ず津波の危険性があるとのコメントは採れる。「日本での津波の影響はありません」の後に「なお、東大地震研によるとインド洋地域では津波に警戒する必要があります」と付け加えるだけで、放送を見た日本人やその周辺にいる人たちは身構えたはず。

 太平洋の津波警戒システムからの連絡は緊急性の質はともかくとして、インドネシアとタイには届けられた。両国とも観光政策への配慮などで生かせなかったが、インドやスリランカ、モルディブには全く連絡は行かなかった。でも、NHKの国際テレビ放送を見た人はインド洋地域に多数いたはずだ。地震国日本からのメッセージが惨事の様相を変える可能性があった。国際配信しているのは子会社のNHK情報ネットワークだからという弁明は通用しない。

 もっともっと公的な義務を忘れている例として、酷い現地報告がある。「そよかぜ日記」の「2005-01-06 スリランカ津波被害者の手記」は女性が書いた長文レポートだ。津波襲来で自分の小さなバンガローに逃げ込んだが「気がつくと私の体はあっという間に天井まで持ち上げられ、天井まであと20㎝というところで頭だけ出して浮いていた」「私は下水の真っ黒な水であふれた水中にもぐりこみ水の下に消えたドアをくぐり外へ泳いで自力で脱出した。この判断までにおよそ1,2秒だった思う。今思えばそのチョイスをミスれば私はここにいなかった」

 この女性が現地の人に助けられながら、命辛々コロンボの日本大使館にたどり着くと「パスポートの再発行には10250ルピー(約1万円)が必要でお金は貸せませんというではないか。愕然とする。津波より怖い日本大使館!」「ロビーに誰もいなくなって一人で待っている間も涙がぽろぽろ出てきて困った。セキュリティのスリランカ人がどうしたのか?と小さな声で聞いてきたので、津波で全部なくなってしまった。2日かけてウナワトナからキャンディ、コロンボにたどり着いたけど、お金を貸してくれないといっている。お金がないとパスポートも再発行できないし、お腹も減っていて疲れていると答えた。悲しいというよりも惨めだった」

 邦人保護を最大の仕事にする現地大使館が、津波から2日も経ってまだスイッチが入っていなかった。あきれるばかりだ。女性が大使館の暗いロビーで着の身、着のままで一夜を明かし、大使が出てきて待遇がよくなるのだが、その時には女性はもうこんな所にいたくないという気持ちで一杯だった。

 最近しばしば思うことに、我々の社会のプロフェッショナルは本当に「プロ」なのだろうか。その場、その場で降ってくる仕事を、前例の手順通りに垂れ流し処理して済ませているのではないか。ブログを書くのは現状ではプロの仕事ではないかも知れないが、もっと目的意識を持ちマスコミに出ていない一次情報を探して挑んで欲しかった。そうでなければ日本のブログ界がマスメディアを脅かすような時期は永遠に来ない。今回は日本語情報の集積が遅れ気味で、比較的良くできた「プーケット津波情報総合(スマトラ沖地震)」でも年末はマスコミ情報だけ、1月8、9日になってようやくブログ系のオリジナル情報がそろい始めた。新しい視点はまだまだ発掘できよう。

 ※注:プーケット津波情報総合のブログ情報収集は下のコメント欄にある通り、27日から始めたそうです。
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by ydando | 2005-01-09 18:04 | 世界
インド洋大津波にもっと視点を
 今週末のブログ時評は「インド洋大津波」で行こうと決めたのですが、予備リサーチではかなり淡泊な印象です。

 既に経済界からも「援助額だけ多くて、顔が見えない」との批判も出ています。パウエル国務長官は現場に出向くのに、日本の外相はなぜ?。今日、明日のニュースで触発されることが多いとは思います。昨日正午、欧州は一斉に鎮魂の時にしたのに・・・などの批判もあります。

 この災害はこの世紀の何か重要なものを変えるのではないか、と思えるほどの凄みがあります。日本のブログ界が何を考えたかも歴史上の評価対象になり得ると思います。
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by ydando | 2005-01-06 03:41 | 世界
紅白の視聴率ダウンを解読すれば
 NHK紅白歌合戦の視聴率が前年比で6.6%減って、初めて40%の大台を割った。第2部平均で39.3%に止まった。恐ろしく関連データが豊富なサイト
「紅白歌合戦完全マニュアル 」を見つけて読んでいるうちに、ちょっとコメントしたくなった。5年前には50.8%もあったのだから。

 平成になって現在の2部構成にし、演歌中心からポップな方向に振ったのは、言うまでもなく若い層にアピールしたいから。20代のNHK視聴率が他の世代に比べて特別に低くなっている事情がある。

 NHKが一番欲しかった若い層への新たな浸透は、今回も無かったよう。前回の「後藤真希32.8%、松浦亜弥37.1%」が、今回は話題のコンビにして「後藤真希&松浦亜弥36.2%」に終わった点が象徴している。

 逆に演歌が好みの中心になる、従来からのコアな視聴者は確実に目減りした。「小林幸子50.6%→46.0%」が目立つし、「平井堅50.1%→45.1%」もその感じが深い。不祥事の連続に不手際を重ねたのが確実に響いている。痛手でしょう。

 さて感想なのだが、あまりしっかり見ていなかった。強いて言えば、「眠れぬ夜はふりーぱと・」の「君は見たか、紅白を。」に書かれている感じに近い。「何度もカミさんと顔を見合わせ、時にあんぐり口を開け、『これって、台本あるんだよね』『こういう演出なんだよね』・・・お互いに、口に出して確認したくなるほど、不安になるレベルだった」

 実は20代のNHK低視聴率傾向は、新聞業界が抱えている「無読層問題」と重なっている。これについては別のエントリーで考えたい。
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by ydando | 2005-01-06 00:27 | 文化スポーツ
グローバル競争社会化の元凶は日本 [ブログ時評05]
 ニートについての議論が奇怪なほど盛り上がりを見せ、国際調査データが発表された学力低下問題と合わせて、ブログの世界で教育についての関心が高まっている。底流は競争社会からのドロップアウトへの関心だろう。そんな中で、競争社会で子どもをどう育てるか議論しているグループを見つけた。「ベンチャー企業社長の挑戦、そして苦闘」の「競争社会を生き抜くために(2)」や、「at most countable」の「やっぱり『子供は大人社会の鏡』だと思う」を中心にしたエントリー、トラックバック、コメントである。

 「競争社会を生き抜くために(2)」は「人格が形成される時期から、競争・勝ち負けを体験し、想像力・創造性を養う――この2点が必要だと思います。
そして、残念ながら、今の社会は、この2点に加速しながら逆行していっていると思えてなりません」と学校教育の現状を指弾する。親たちの過敏なまでの反応・圧力でそう出来なくなっている点について、「やっぱり『子供は大人社会の鏡』だと思う」は「勝ち負けに対して大らかでいられなくなったのは」社会全体の風潮が「『勝ち負けが全て』みたいな価値観が支配的になってしまっているから、学校現場の他愛のない『勝ち負け』すら『シャレにならなく』感じられてしまう、そう思えるんです」と応えている。

 ニートを巡る様々な議論を読んで感じたことであるが、いま個人が立っている地点では納得できる事柄かも知れず、若い世代の方がブログを書いているとしたら、社会に目を向け始めた頃は既に90年代の「失われた10年」だったかも知れない。そこからの長い長い閉塞で、年長の方にも、今あることがずっと続いているかの錯覚に陥っていないか。戦後日本史だけでなく世界まで目を広げた同時代史の視野を持てば、自ずと違う見方が出来る。

 まず第一に知って欲しい。競争社会は海外から押しつけられたものではなく、グローバル競争社会化を仕掛けた元凶は日本なのである。99年に私の連載第68回「日本の自動車産業が開いた禁断」でこう書いた。

 日本自動車産業で開発され「日本の専売特許のように思われていた『リーン生産方式』は、世界中に広まってしまった。私はこれがもてはやされた始めた頃から、ふたつの点で懐疑的だった。まず、労働は人間文化であり、社会の存在のありようと密着している。その国の労働のありようを根こそぎ変えることが許されるのか」「もうひとつは、現実に起きていることである。総合的(全社的)品質管理TQCは偉大な成果を挙げたが、所詮はきちんと測定して統計データを採っていけば、誰にでも可能なことである。きちんとやり通すことは日本人の専売ではない。徹底的にやるという意味では、米国人に歩がある」

 90年代初頭のバブル崩壊と経済財政運営の失敗で始まった「失われた10年」の印象が強烈過ぎて、80年代に「ジャパン・アズ・ナンバーワン」と米国を凌駕するとまで謳われた時代に何があったか忘れられていよう。日本の自動車産業や家電産業は「安かろう悪かろう」から出発して、世界を押しまくり、結果として世界の労働文化の多様性を大いに壊した。

 その優位性は物づくり現場周辺に限られ、豊かな創造力はソニーなどほんの一握りのメーカーが具現しただけだった。独自労働文化が倒され、何でもありになった欧米の産業界にとって追いつくのは苦ではない。さらに経営者を含めたホワイトカラーの力量差はもともと大きく、政治・行政を含めた立ち後れはどんどん進んでいる。それは第69回「続・日本の自動車産業が開いた禁断」で描いた。90年代初頭の崩壊劇が無くとも逆転必至、いや、あの崩壊劇そのものが政府にもアカデミズムにもマスメディアにも一国の経済運営を見通す眼力が無い、「砂上の経済世界一」の証明であった。

 「ジャパン・アズ・ナンバーワン」の80年代、教育の世界でも大きな変動が起きていた。学校内が安全でなくなる事態、子ども同士が傷つけ合う――これまでの常識になかった。私は第95回「学力低下問題の最深層をえぐる」で「プロ教師の会」を主宰する中学教諭の河上亮一さんの発言として、起きている事態をこう紹介している。

 「十数年前からそれ以前と全く違った『新しい子ども』たちが登場したのではないかという感じを持っています」「特徴はひ弱で、しかも他方で非常に強いと言いましょうか、攻撃的と言いましょうか」「生徒たちは学校で学ぶ姿勢というんでしょうか、学ぼうという意欲を大幅に低下させているという気がします。30年前の中学生と現在の中学生を比べますと、学校での学ぶ姿勢は大きく低下していると思います」「基本的に学校というところで何を学ぶ必要があるのかないのか、こういうことが子どもも含めて親についてもはっきりしなくなっているんではないだろうか。こんな感じを持っています」

 この世代こそ「団塊の世代ジュニア」であり、団塊の世代の生き方をコピーしていた。もちろん、華々しい学園闘争などを戦った青春像のコピーではない。戦後の知性を批判し、偶像を破壊した割には自分たちが主役の時代になっても新しいものを生まなかった。いや、主役になろうとせず、「老害」と呼ばれる世代に喜々として追従し続けた。第一次石油ショックの前に社会に出て就職してしまい、成長社会の中、右肩上がりの安寧をむさぼり、前例踏襲主義の管理職になり高収入を得てきた。その生き方の反映である。

 この世代に対して採られた国の迎合施策が、世界に冠たる存在だった教科学習の間引き、ゆとり化、受験戦争の表面的な緩和だった。

 一方、グローバル競争社会化に対処するため高等教育に期待が掛けられるはずだったが、理系も文系も研究者たちには他流試合を挑むどころか、自分の周辺に深い蛸壺を掘るスタイルが蔓延した。国際級の研究成果なら世界共通基準で価値が計れたが、多くの研究は「蛸壺」の外に出してみると、どこで何と関係しているのか、どんな価値があるのか見えなくなった。第74回「大学の混迷は深まるばかり」では以下のように言うしかなくなった。

 この国の大学と大学生から世界に通用するベンチャーがなかなか生まれない理由も、自ずと明らかだろう。我々の社会が持つ大学教育の「仕組み」は、酷な言い方をすると、個性的、創造的なものを排除する方向にある。本来、大学は創造的な空間のはずだが、何が創造的なのか、私の体験で述べたように大学人にも分からなくなっているのだから、創造的であり得ようはずがない。

 団塊の世代を含む中高年層は、自ら起こしたグローバル競争社会化のツケを次世代にまるまる負わせて良いのだろうか。小泉改革の登場に、私は大甘を承知で、英ブレア政権の改革とダブらせてエールを送った。しかし、労働党の変革と一体になっている英国と違い、小泉「個人芸」改革はやはり本質的な改革になっていない。企業は国際競争の激化、業界ごとの横並び・護送船団方式崩壊から業務外部化や派遣労働導入で社員採用のハードルを上げた。ここに至っても最後まで新しい社会像を作ろうとしなかった団塊の世代は、家庭内でもニートやフリーターのような逃げの存在を作り出した。このまま退場して年金生活に入るのなら、二重の意味で罪作りではないか。
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by ydando | 2005-01-03 16:51 | 世界