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by ydando
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カテゴリ:社会・教育( 24 )
もう気付こう、文科省なんか不要だ [ブログ時評08]
 学力低下が言われる中、02年度に導入されたばかりの「総合的な学習」見直しを中山文部科学相が表明したことを受け、2月の中央教育審議会で具体的な検討が始まりそうだ。文科省が十数年掲げてきた「ゆとり教育」志向の看板が音を立てて崩れていく。

 「おぃおぃ・・・今頃になって何をあわててるんだよ! 2002年から今の学習指導要綱に基づいて、せっかくやり始めてまだ2年やん? 研究に研究を重ね、一般庶民の声に逆らって、頑張って決めたことちゃうの?」。「極私的映画論+α」の「『総合学習』の見直し」にある声が最大公約数的な、庶民の反応だろう。結果として見直し賛成でも、まず、こう言いたくなってしまう。

 「タムリンの日記」の「文科省方向転換」は「失敗の責任は誰もとらず、文科大臣を変えることによって、その気まぐれ発言により方向転換を図ろうとする、全く無責任な形で教育改革が進んでいます。あれほど、テストの点だけが学力ではない、学力に対する考え方を変えよと言っていた文科省が、他国とのテストの点での比較で、学力低下をマスコミに批判されただけで・・・。しわ寄せはすべて、現場の教員に来るわけです。こんなシステムではよい教育ができるはずがありません」と怒る。

 確かにこの方向転換は唐突である。拉致問題で首相官邸の対北朝鮮最強硬派だった中山参与の夫君が中山文科相。このご夫婦、思い込んだら梃子でも動かぬ点で似ていらっしゃる。小泉首相が組閣で中山文科相を選んだ時点で、レールは敷かれたのかも知れない。

 昨年末の文科省事務次官人事で文系の官僚ではなく技官出身の結城章夫氏が内定したことも盛り込みながら、それを少し穿(うが)って書いているのが「電脳くおりあ」の「文部科学省が変わる?」である。例の「三位一体改革」によって義務教育国庫負担金制度が廃止寸前まで行き、文科省の存在理由が揺らぎ始めている。ここで過去の束縛がない新文科首脳ラインで学力低下問題を表面化させ、社会的な危機感を煽り、文科省の存在意義を訴える手に出ている可能性がある。「私は、どんな意図があろうと、本当に本気になってかかってくれればそれでいいと思う。危機感のない中央省庁では、なくてもいいことになって当然だからだ。問題は、改革の内実だと思う」「大事なことはこれからだ。文科省が何をしようとしているのか、しっかりと見届ける必要がある」

 文科省を批判をされる方でも、その存在がまず前提になっている。それを突き抜けているブログは見つからなかった。私ならこう言いたい。「もう気付きましょう。文科省なんか要らないんですよ」と。

 今度の見直しで学校現場の混乱はさらに深まろう。総合的な学習に手を焼いていた先生は助かる。しかし、総合的な学習が得意で成果を上げていた先生まで、教科学習重視に引き戻されてしまう。欧米先進国に追いつこうとしていた時代までは、中央統制型の教育行政に意義はあったが、今となっては教育本来の姿、地方分権で現場の実情に合ったやり方に委ねるべきだ。学習指導要領なんかも要らない。教科書も自由に作り、教え方も自由。教科学習に強い先生はそこから入ればよいし、総合的な学習を駆使できる先生は生徒の「目覚まし」をして教科学習の必要性を判らせればよい。

 ただし、こうしたことが可能になるには、その地域社会が自分達の子どもは自分達で育てると覚悟を決める必要がある。お金も人手も掛けねばならない。現在、多くの先生はパソコンを自在には扱えない。今の時代に総合的な学習をするのに大きなハンディキャップになっている。それなら地域社会がボランティアを募ってもパソコン支援役を学校に送り込む。定年退職した方たちにも語り部として、生きた教材として学校に来てもらう。地域社会全体で学校を包み込むのが前提だ。

 昨年書いた「学力・読解力低下で知る危うい国家戦略 [ブログ時評03]」で描いたように学校、特に公立校の疲弊ぶりは甚だしい。きちんとした教科学習を捨てて、甘やかしや思いつきの学校運営に走ってきた。子どもや親たちの信頼も落ちている。成績の良い子は私学に流れた。ここで文科省通達で「教科学習に舵を切れ」と指令して、大きく実質が変わるとは思えない。必要なのは指令ではなく、現場への厚い、そして熱い手助けだと考える。

 こんな意見もある。若手の無党派神戸市議が「教育方針に正解はあるか?」で「戦略的に考えるならば、20年後の日本が必要とする人材ビジョンをきちんと描き、そういう人材を育てるために教育方針を定めるべきなのでしょうが、『20年後にどんな人材が必要とされるか?』など予測できない・・・というのが私の結論です」と述べ、「多様な教育機関が多様な教育を行えば、結果的に多様な特長を持った人材が育ち、時代の変化に合わせて誰かが活躍するはずです」と語っている。

 もう一度繰り返そう。中央統制教育の時代はもう終わったのだ。歴然たる失敗にまた失敗を重ねるのが目に見えている「小手先の方向転換」ではなく、教育の主体を地方の手に取り戻し、自分達の責任で子ども達を育てるしかない。子ども達のモラルの低下や生き方を見失っている問題にも、地域社会全体が取り組むしか解決法は無いのだから。
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by ydando | 2005-01-23 02:03 | 社会・教育
学力・読解力低下で知る危うい国家戦略 [ブログ時評03]
 経済協力開発機構(OECD)による主要41カ国・地域の生徒の2003年学習到達度調査結果が12月7日に公表され、前回2000年に比べて数学的活用力が1位から6位、読解力は8位から14位に落ちた。文部科学省は「我が国の学力は世界トップレベルとはいえない状況」と言い出した。日本人生徒に白紙提出が続出した読解力の今回問題は公表されなかったが、前回分は読むことができ、落書きについて対立する二人の手紙から言い分をくみ取って記述する構成になっている。

 「極東ブログ」の「日本学生の読解力低下が問題ではなく文化差異が問題だ」は、問題の手紙文を前にして「私は、ちょっと文化的な目眩感を感じた」「私は、どっちかというとかなり欧米的な高等教育を受けたし周りに非日本人の学友もそれなりにいた。で、あいつらは、そう、こんなふうに言うのだ。そう、こういうふうに自分の意見をがなりたてるのだ」と気付く。日本人にはどうでもいいだろうと思えることでも、議論を始めたら執拗である。

 私がドイツに取材に行ったとき、通訳の人が「この人たちは同じような中身を、言い方を変えて前後3回言わないと気が済まないんですよ」と嘆息した。しかし、国際的にビジネスしようとすれば、議論とはそんな面倒を嫌っていられないものだろう。「極東ブログ」も日本人には不向きとは認めつつ「どうしたらいい? 結論はついている。こうした読解力を高める以外に日本人が今後の世界を生きていく道なんかないよ、である」とする。

 教育現場にいた経験がある人たちには、読解力低下は周知の事実である。「くろねこ@国語塾」の「日本の高校生の読解力低下」は「某予備校の現代文講師を1年ほどやっていました」「『“自尊心”を外来語で言ってくれ』と当てると『“外来語”って何?』などと返ってきて驚愕したことも数知れず。おいおい18歳超してて理系クラス、しかも偏差値高いはずやのにどーなってんねんと疑問に思ったものです。基本的な『語彙力』が足りなくなっている気もします」と明かす。

 「それ以上に、読解力は『ひと粘りする忍耐力』という側面があります。 また子どもの『粘り』=『読解力』が無い理由として、世の中総じて『感情』が先に立ちすぎている感じがします。世の中には感情論が溢れ、少し論理的に考えればさして問題でないことや解決するにはたった一つの方法しか無いことに、引きずり回され過ぎている。筋道立てて周りにも目を配りながら論理的に考えることを封印して『自分が快か不快か』だけで感情を撒き散らしていると、起こった出来事に対しての理解力・判断力が失われてしまいます」

 「キレやすい子どもたち」、社会性に乏しくなった子どもたちの姿が読解力問題の背景にあるのだ。テスト対象は、義務教育修了15歳の生徒から無作為で選ばれている。この生徒達は、まだ学校週5日制が完全実施される前に当たる。次回学習到達度調査がある3年後にはどうなるのか、非常に悲観的な声を多数聞いた。

 それではどうしたら良いのか。塾講師などの経験から導いているのが「Motto」の「読解力(1)」。現状の問題点を「・文章の内容がわからない。・思ったことを表現できない。・自分ひとりで考えられない」の3点と指摘する。「これは実際に私が家庭教師や塾講師をやって、100人くらいの生徒をみて調査した結果」。だから例えばゲームをして面白いことがあっても、うまく説明できないような子への対策として「子供たちとのコミュニケーションを保ちつつ、こちらでは無理に内容を理解しようとしない。うまく説明させる」ように辛抱強く、し向けるのだという。

 大人が子どもに聞きまくって、頭に浮かぶイメージを言葉にさせる。学校任せでは本当は駄目なのだろう。現在、米国在住の大学生による「目標へのプロローグ」の「第23回:日本人の学力低下」が、これと似通った親の行動を伝えているのも興味深い。

 「現在六歳アメリカ人の男の子の宿題とか覗いてるんですが、親が積極的に『子供と一緒に勉強または子供が何を学んでいるのか常にチェックする』と言った日本によく見られる学校・塾依存体制から一歩先に進んでます。例えば、『ジャックとマメの木』の本を読んで、『マメの木が伸びた時のジャックの気持ちを表現してみてください』とか『話のその後がどうなったのか子供と一緒に考えてみてください』などなど本当に『学校・親・子供のトライアングル』が形成されているのには驚きました」

 教科内容3割削減の新学習指導要領、ゆとり教育導入には、子を持つ親の立場からは賛否がある。「☆jasmintea7 日記☆」の「学力低下問題について」は、やむなし派である。「現在息子が通ってる高校も総合高校ですので国語、数学、英語も2、3年では必須になっていません。じゃ、何をやってるのかと言うと個々の選択にもよりますが『農業実習』『プログラミング関係』『福祉関係』『郷土の歴史』『環境問題』等などです。美術や体育、音楽も細かなジャンルに分類されています。(たとえばゴルフ、油絵、陶芸など)」「これでは絶対に基礎教科の学力は落ちますね。でも、それは詰め込み教育の弊害が多くなった時点で上記目的への転換だったのですから仕方ないと思います」

 これに対して「tsurezure-diary」の「心のデフレスパイラル@小学校」学校への不信感を訴える。「うちにも小学生がいますが、とにかく入学以来毎日学校が嫌で、給食食べるために通っているようなもんです。嫌でたまらない理由は、授業参観してよくわかりました。クラス全体が落ち着きがない。先生が話をしている途中でタメ口で茶々を入れる。親も親で、授業中であっても平気で後ろでおしゃべり、しかも携帯鳴るし」「親自身が何で勉強する必要があるのか、ということを子どもに明確に説明できなきゃどうして子どもがそれを優先事項だと思えるのでしょうか?世の中の大人たちが、一生懸命勉強したって将来たかが知れてると身をもって示しちゃってるのに、学校への信頼感なんて子どもがもてるわけないじゃん」

 新学習指導要領に先立つ13年前に、小学校に生活科が取り入れられた。今回導入の総合的学習の先駆であり、月1回の学校週5日制も導入されて6日制が前提の教科内容が消化不良を起こすようにもなる。「落ちこぼれ」ほか、この時代から様々な問題が積み重なってきたのである。

 「nanayaのひとりごと」の「学力低下の原因はどこにある?」は自らの大変さを語る。「何がどう難解だったか。わが子が小2の時の学習内容。小学校段階で一番内容的に集中して大変な学年であった。算数は毎週のように単元が変わる。しかも脈絡のない単元の構成で、時間を習ったかと思えば、次の週は距離について、次は液体の容量、そして次は2桁3桁の数の計算など。九九が入ってくるのもこの年次であった。漢字もおそろしく多い。復習する間もなく、次の新しい内容に移行する。子どもも教師もパニックになりそうだった」「『生活科』が始まったのもこの頃。教師の力量で素晴らしい授業が期待できる半面、無駄な時間だと言い切った教師もいた。私も学習会に参加して、問題点の多さを思い知らされた。まさにこのときは低学年攻撃型指導要領だと思った」

 「鴎のキャナリン(眠る知性) 」の「小学生の低学力」も辛辣である。「『生活科』ができてから、小学生の基礎学力低下が始まった。『理科』『社会』がなくなり、保育園のお遊びタイムのようになった。その上に『ゆとりの時間』で学校は『遊びに行くところ』になった。『影』の学習が3年生になった頃。『かげってなあに?』って、普通の子に普通に聞かれた時、影を知ってる子が30数名中、3人しかいないことを知った時の驚き」「3年生というと早い子は生理になる子もいる。母親になれる身体をもって、影を知らないのである。子どもは、正直。本当にそう思った 」

 調査の結果が抜きん出ている国が北欧フィンランド。公立中教員を退職して嘱託で教壇に立つ「風のたより」の「OECDの第2回学習到達度調査(PISA)の結果が公表された」は日本の教育現場との差をこう書く。

 「『総合的な学習』については、前回も今回もトップに君臨するフィンランドの実践を真似て、僕もいろいろな授業の参考にさせてもらった。フィンランドが成功していることひとつをみても、この考え方そのものが大筋で間違っていないことは確かなのだと思う。だが、教育行政のスタンスが日本とフィンランドではまったく違う。フィンランドは、教育の地方分権を推し進め、教師の資格をより厳しく(『修士』以上に)し、サポート体制に十分な予算を投じている。日本は、教育の中央集権に執着しつづけ、教師の待遇は劣悪に放置し、『思いつき』は押しつけるが金は出さない」「何か、とんでもない間違いが放置されている。『日の丸・君が代』には血道を上げるくせに、国民の文化水準をどう高めていくか、子どもたちが『賢く』成長するために何が必要なのか、といったことには何の定見もプランもない」

 人口520万人と日本なら兵庫県くらいのフィンランド。世界最大の携帯電話メーカー、ノキアがあることでも知られる。ハイテクで生きる、この小国が教育政策に失敗したら致命的だ。一方、超大国アメリカの学習到達度調査成績は低迷しており、関係者は危機感を口にするが、それほど焦っているとも見えない。一部のエリートは育つだろうし、アジアから優秀な頭脳を大量導入すれば済む。現にそうして研究開発は成り立っている。なら、日本はどうか。一部のエリートでやっていける国か。

 皆さんが論じられている通り、学力低下には文部科学省官僚の政策的錯誤が大きいと考えている。それは「勝ち組」さえも裏切るほど場当たりである。長くなるので私の過去の連載第120回「負け組の生きる力・勝ち組の奈落」の参照を勧めたい。
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by ydando | 2004-12-12 15:11 | 社会・教育
「学力低下」論じた方はTBを!!→ブログ時評に載せます
 OECDによる主要41カ国・地域の生徒の学習到達度調査結果が公表されました。既にあちこちのブログで議論が始まっています。これに合わせて、ブログ時評は今週日曜の更新で「学力低下」を取り上げます。

 ブログに書かれた皆さん、独自の分析や切り口、データをここにトラックバックしてください。読ませて頂いて、時評にまとめます。

 なお、ブログ時評はメールマガジン「インターネットで読み解く!」に載るほか、様々なサイトの皆さんの協力などもあって、数日間で数万人の目に留まる仕組みになっています。

 これまでの2回分は次の通りです。

ニートだけか、生き方の迷い子たち [ブログ時評01]

血液型性格分類とメディアリテラシー [ブログ時評02]
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by ydando | 2004-12-08 14:50 | 社会・教育
ニートだけか、生き方の迷い子たち [ブログ時評01]
 2004年5月にフリーター問題の陰に隠れて見えなかった働かぬ若年層「ニート」(NEET:Not in Employment, Education or Training)の存在が表面化し、秋になると各種の統計データが出され、ブログの世界あちこちで議論が盛り上がっている。厚生労働省のまとめでは2003年現在、15~34歳層で、フリーター217万人、働く意欲はある失業者164万人に対し、働くことも学ぶことも放棄しているニートは52万人とされる。

 最新のヒットは「R::30マーケティング社会時評」の「ニートになりたい僕たち」。「要するに結婚してない無職男性がカジテツって自称できないからニートなんだね。女性は結婚せず仕事もしなくてもカジテツかよ。男でもカジテツって呼べよ!とか思うのは僕だけだろうか」と意外な切り口を打ち出した。

 「実は以前から人に『将来何を目指しているの?』と聞かれるたびに『専業主夫』と、半ば冗談で答えるようにしている」「僕がニートという言葉に何かもやもやしたものを感じていた理由というのは、この言葉自体が『いい年した男性は結婚して働いているべきだ』という社会的偏見をたっぷりと含んでいるからじゃないのか」と、世間的常識にしっぺ返しをしたのが受けて、3日間で6000人以上が訪れたそうだ。

 むしろ面白いのは、これに続いて書いた「結婚したら負けかなと思ってる」で「ニートと非婚化の何が共通しているかというと、それは親の存在だ。ニートでも『むりやり就職しなくてもいいという親』の存在がニートを(経済的、精神的に)許してしまっているという声があるが、結婚だって同じなのである」と少子・非婚化との関わりを見つけている点だろう。ニートの親世代はいわゆる団塊の世代であり、夫婦は自分勝手をしている家庭内別居状態が多い。そんな結婚をしてもと子ども世代は思う。同様に会社人間の父親の背中を見て、こうはなりたくないと思う若者が出て不思議はない。

 「ホームレス問題対策と自立支援:ミッドナイト・ホームレス・ブルー」の「ニートと引きこもり&フリーター(1)」も気になる問題の立て方をしている。裏付けには当事者だからこその実感も混じっているかも知れない。

 「ホームレスのアンケート調査などを比べると、引きこもりと似通った点が多い」「少なくともホームレスの一部は、まずまちがいなく引きこもりとおなじメンタリティを持っているだろう」「ホームレスの問題を単なる失業問題と同意に解釈している人も多いと思う。だが、単なる失業者ならいざ知らず、ニートや引きこもりは明らかに雇用の問題ではない。そして、彼らがなんらかの事情で住む家を失ったとき、その先に待ち受けているのはホームレス状態である」

 ブログ上にはニートあるいは、その寸前らしい人のものも幾つも見つけられる。「ターミネイターにならないために--フリーターの本当の姿を知ってください! フリーターが語る渡り奉公人事情 」の「ガラスの板~赤信号」は、服がボロボロで面接に行けなくなる、服毒自殺に失敗、街角のフリーペーパー情報誌にさえ手が出せなくなる「退行」の例を恐ろしくリアルに読ませてくれる。フリーターからニートや引きこもり、ホームレスと結ぶ内的な脈絡が存在すると考えてよかろう。

 こうして52万人ニートの問題は、非婚化からホームレスまで実に幅広い社会的関連を持つと知れる。ニートは英国で出来た概念だが、日本でも同じ実情・実態と考えるべきではなかろう。このあたりで専門家の意見も聞いてみたい。

 「ニート――フリーターでもなく失業者でもなく」(幻冬舎)を書いた玄田有史・東大助教授にインタビューをしてきたという「Talk & Diary」の「"個性"を強制する教育システム??」は玄田助教授の言葉としてこう伝える。

 「ニートの一番の問題は、『何でもかんでも個性を出せという教育だ』とおっしゃった。『個性なんてみんなにあるもんじゃない。特に個性や才能のない人はどうすればいいの?普通の人にとって、とても生きにくい世の中になっている。そういう意味では、ニートというのは特別な問題ではなく、この社会のすべての人の問題なのだ』というのだ」。そして、作者は、学区制を廃止した上で生徒が選択できるよう各都立高校に特徴を出せと簡単に言い募る都教委の姿勢に疑問を投げる。日本の社会はどうしてかくも、みんな一律が好きなのか。少し前までは平均点の子ばかりにしようとし、気が付けば、今度はみんな個性がある子ばかりとは。

 マスメディアがこれまで伝えてきた中には、ニートに発達障害のようなものが関係する見方もある。一部に可能性があることは否定しないが、本筋は違おう。私が2年前に書いた第124回「少子化対策の的は外れるばかり」で、精神分析家・野田正彰さんの講演「少年犯罪と教育―エピソードを持って生きよう」を引用している。

 「欧米でも『一人っ子的二人っ子』は日本より早く到来しましたが、日本とは対処が違いました。欧米では、子どもたちどうしの社会をつくることを進めた」「日本では、細切れのスキルを付けさせようとしました。この結果、自閉型の遊びが増えました。ゲームウオッチ、テレビゲームがそれです」
 「その結果か、感情表現が乏しくなりました」「奇妙なことに、『心が傷つく』という不可思議な言葉が当り前に多用されるようになりました」「傷つかなければ人間でないように思い始め、さらに『心が傷つく』と、『心』を実体化させるようになりました。『心』は実体ではなく、人と人との関係の中で生まれるものにもかかわらず、『心』を実体化させることによって、ただ耐えるだけになってしまった」

 他人と結んだ関係の中にこそ、その人の本質が存在する――社会的動物としての人間存在が理解されず、日本では特異な誤解が広まってしまった。非婚化は相手を考えない身勝手な結婚観を自分の「心」だと決めつける結果だし、他人との間に関係を築くトレーニングが乏しいために、引きこもりから抜け出しにくい。それは少年犯罪、ホームレス状態へも延びていく。10年、20年先を考えることもなく、少子化対策に表面的な手しか打てない政府と合わせて「国に続き個人も生き方モデルを見失った」と私は総括した。

 米国ではニートや引きこもりは問題にならないし、女性が一生に産む子供の数、合計特殊出生率が「2」を超える唯一の先進国である。ヒスパニック系が持ち上げている面があるものの白人も出生率が高い。何故だろう。私が推察するところ宗教の力だ。ブッシュ大統領再選には宗教右派の力が絶大だったとされる。葬式宗教ばかりの日本人と違い、日曜以外にも教会に足を運ぶ人たちは「生き方の迷い子」にはならないはずである。

追補】米国の市民生活における宗教の大きさは、日本人の理解を超えるかもしれない。第29回「過労死と働くことの意味」で紹介した「仕事中心性・国際調査」では個人生活を100点満点で評価して、「レジャー、地域社会、仕事、宗教、家庭」の5部門に割り振ると、米国人は宗教に10点くらいを配分するのが当たり前になっている。
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by ydando | 2004-11-28 15:31 | 社会・教育